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2017.01.24up

岡潔講演録(23)


「1971年度京都産業大学講義録第23回」

【1】 情がわかる日本人

 素粒子論をよくみてみると、云うところをよく聞いてみると、不安定な素粒子がまるでバケツで水を運ぶように、安定した位置に何かを運んでいると、そんなふうにみえる。何を運んでいるのであるにしろ、安定な素粒子というのも、位置が安定してるというだけ。で、内容は絶えず変わっている。

 そうすると自然は存在ではなくて『映像』だということになる。自然は映像ならば、このからだもまた映像。『自分』とは一体なんであろう、一体なにがどうなっているのであろう。自分とは一体なんであろう、こういうことになります。これがわからなきゃ、自分が何かわからなきゃ、人も何かわかりゃしない。一切が考えられない。

 で、自分ですが、こんなこと考えられるのは日本人だけだろうと思う。他のは考えられないと思う。まあ暇があれば、暇があればって、話がそっちへ向けばお話しますが、ともかくわたし達日本人には、何が自分だろうと云って、このからだが自分だと思う者はない。ましてこれは映像だと云うことがわかる。

 そうすると『心』が自分。心に『知・情・意』、それから強いて云えば『感覚』というものがある。これ(感覚)は非常に浅く出る。このうちどれが一番底だろうか、心の奥底(おうてい)だろうか。これは情だということが直ぐにわかります。これが直ぐにわかるのが日本人だけだと云ってる。

 そうでしょう、心に何か『存在』を与えるもの、存在を与えるものと云うのは、各人の心が存在を与えるからそれが存在するんですね。その心のうちで存在を与えるものは何か。情です。知は存在を与えない、意は存在を与えない、情です。

(※解説1)

 ここではしきりに岡は「日本人」を強調している。「これ(情)が直ぐにわかるのが日本人だけだと云ってる」といって、「情」というものと「日本人」の接点をしきりに強調するのである。岡はそれが断言できるくらい、既に相当この事実に自信を持っているのである。

 今まで国や民族によって「心の構造」が違っていることを、真剣に考えた人があるだろうか。それは今まで何故かタブーであって、たとえ国や民族が違っていても人の心に変わりなどある訳がない(西洋の第1の心の世界観からはそういう結論しか出てこない)、というのが世界の常識ではなかっただろうか。

 それは一見もっともらしく聞こえるし、そうであれば話は誠に簡単である。しかし、では何故少なくとも東洋には宗教戦争というものがないのか。そればかりではない、では何故日本では宗教はいつのまにか住み分け、もしくは融合してしまうのか。ましてや今は諸外国から「クールジャパン」の声がしきりに聞こえてくるのは一体何故なのか。

 今まで「日本だけが・・・」等というと、直ぐに国粋主義、民族主義のレッテルを張られたものである。そういう見方は諸外国では今も確かに残っている。しかし、その理屈は人の心の構造は全て同じだとの前提から生まれてきたものであって、それぞれ心の構造が違うかも知れないという前提に立てば、また違った景色が見えてくるのではないだろうか。

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