「1971年度京都産業大学講義録第23回」
【1】 情がわかる日本人
素粒子論をよくみてみると、云うところをよく聞いてみると、不安定な素粒子がまるでバケツで水を運ぶように、安定した位置に何かを運んでいると、そんなふうにみえる。何を運んでいるのであるにしろ、安定な素粒子というのも、位置が安定してるというだけ。で、内容は絶えず変わっている。
そうすると自然は存在ではなくて『映像』だということになる。自然は映像ならば、このからだもまた映像。『自分』とは一体なんであろう、一体なにがどうなっているのであろう。自分とは一体なんであろう、こういうことになります。これがわからなきゃ、自分が何かわからなきゃ、人も何かわかりゃしない。一切が考えられない。
で、自分ですが、こんなこと考えられるのは日本人だけだろうと思う。他のは考えられないと思う。まあ暇があれば、暇があればって、話がそっちへ向けばお話しますが、ともかくわたし達日本人には、何が自分だろうと云って、このからだが自分だと思う者はない。ましてこれは映像だと云うことがわかる。
そうすると『心』が自分。心に『知・情・意』、それから強いて云えば『感覚』というものがある。これ(感覚)は非常に浅く出る。このうちどれが一番底だろうか、心の奥底だろうか。これは情だということが直ぐにわかります。これが直ぐにわかるのが日本人だけだと云ってる。
そうでしょう、心に何か『存在』を与えるもの、存在を与えるものと云うのは、各人の心が存在を与えるからそれが存在するんですね。その心のうちで存在を与えるものは何か。情です。知は存在を与えない、意は存在を与えない、情です。
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