okakiyoshi-800i.jpeg
2017.01.24up

岡潔講演録(23)


「1971年度京都産業大学講義録第23回」

【2】 東洋の慮知心

 情が存在を与えたら、忘れようにも忘れられないでしょう。『印象』とか『感銘』とか云います。これは生涯消えない。だから情が存在を与える。また情が認めなかったら、知や意がいくら強弁しても駄目でしょう。そんなことをしてはいけないととめるものは『人本然の情』でしょう。これが『道義』を与えるんですね。道義というのは道徳の「すべからず」の半面です。人本然の情がとめる、知がとめるんじゃありません。

 だいたい知には道徳か道徳でないかわからない。意は情が存在を与えるが故に、『心身を挙して意志する』ことが出来る。意志に()と心との全体重をのせることが出来るのは情が肯定するからです。それで情が一番大切。心のうちで『情が自分』だということがわかりますね。『知や意は道具』です。

 ところが、世界の人々のうちでは、情が自分だということを知っているのは日本人だけです。この周囲は東洋。東洋は『情―知―意』と続く心が自分だと思ってる。こういう『心』を自分だと思ってる。こういう心を『慮知心(りょちしん)』と云います。慮知心を自分だと思うから六道を輪廻する。インドではそう云われてる。中国では言葉は違いますが、同じことが行なわれる。

 この外が西洋です。西洋にいたっては、キリスト教を見ればよくわかりますが、キリスト教がはいって以来の西洋人は、悪魔に魂を奪われはしないか、こう云って恐れてる。これが一番よくわかりますが、そうでなくて遡ってギリシャまで行ったってやはりわかるんですけど、西洋人は魂というのは『soul』、これは情ですが、だから『知や意を自分』だと思ってる。情は非常に大切なものだけれども、自分ではないと思ってる。だからこんな者に本当の自分というものを説くのは容易でない。先ず日本人から説かなきゃならない。

(※解説2)

 ここは「情」の2大要素を特筆した重要なところであるが、そればかりか西洋、東洋、日本の特徴を一掴みにしようとする、誠に岡らしくスケールの大きいところである。

 岡は今まで「情とは何か」を深く探ってきたのだが、ここで明確な結論を得ている。1つは「情が存在を与える」であり、もう1つが「情が道義を与える」である。何と「情」というものの本質を突いた凄い言葉ではないだろうか。

 これは日本人であれば「なるほど」と実感を持つところだろうが、一方人類の哲学史上、画期的な原理の発見であって、この2つは「認識」というものと、「道徳」というものの根本原理そのものである。

 特に「知には道徳か道徳でないかわからない」は今日の法律万能の法治国家の弱点を見事に突いている。

 また、私のよくわからない東洋の「慮知心」であるが、東洋はあまり「情」を重視しないのは確かである。一般的に使われる「知情意」であるが、私はこの言葉はそもそも東洋から入って来たのではないかと思う。

 「情」を重視する岡によれば「情知意」の順になる筈である。しかるに「知」を頭に持ってくるというのは知重視の傾向であって、そういうのが岡から見た「慮知心」というのではないだろうか。当然のことながら、この「知」は西洋の第1の心の「理性」とは別のものである。

  そして「六道輪廻」についてであるが、岡はこの時期面白いことを言っている。第10識「真情の世界」に達している純粋な日本人は、最早六道輪廻はしないここは難しいところだが、これが1つのヒントになる。

 最後に西洋の位置付けであるが、西洋は「情」を重視しないということは「ギリシャまで行ったってやはりわかるんですけど」と岡は言っている。

 岡はどのような例を頭に浮かべているのだろうか。私の推測では多分、この講演録の(16)「嬰児に学ぶ」の(4)「ソクラテスの道徳観」あたりではないかと思うのである

Back    Next


岡潔講演録(23)1971年度京都産業大学講義録第23回 topへ


岡潔講演録 topへ