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2017.01.24up

岡潔講演録(23)


「1971年度京都産業大学講義録第23回」

【3】 表層意識と深層意識

 情を ― 『人本然の情』です ― 人には『意識が2つ』ある。『表層意識』と『深層意識』。表層意識と云うのは大脳前頭葉に働く意識。普通、人が意識と云っているのがこれです。心理学が対象にしている意識もこれ。大脳生理学が説いてる意識もこれです。しかし人には深層意識というものがある。深層意識が全く働かなくなる、そしてその状態が戻らない、こういうことになると医学はその時をもって『死』と認定する。

 なぜ歩く。真理をいっています。わからないか、わかるんだけどなあ。わかるんだけどなあ、まあよろしい。

 深層意識が働かなくなった時をもって、一時働かなくなってもまた働けばそれは別ですが、それっきり働かなくなってしまったら、その働かなくなった時をもって死と認定してる。この認定は正しい。それが深層意識です。が、そんなふうにしなくったって、日本人には深層意識というのがよくわかります。『雨がふる』。この雨がふるとか、雨がふっている時の有様とか、これは表層意識でわかる。しかしそれだけじゃありません。『雨の趣』というものがわかる。例えば芭蕉を借りて云いますと、

 『春雨や蓬をのばす草の道』

これ、雨の趣ですね。

 『しぐるるや黒木積む家の窓明り』

これは『凡兆又は去来』です(凡兆)。

 『生き死にや雪つむ上の夜の雨』

これは終り七五、この七五は凡兆です。

(「下京や雪つむ上の夜の雨」「生き死にや」は岡潔の付け)

こういうのが雨の趣ですね。この雨の趣が、これはわかります。わかりますが、雨の趣、雨の趣は意識を通してわかるんではないでしょう。意識を通そうとすると、こんなものわからなくなってしまう。

(※解説3)

 岡のものは全てが独創的だが、「意識」というものに2つあるとは、なんと虚を突いた指摘ではないだろうか。私が下手な解説をするよりは、本文を丹念に読んで頂きたい。ただ1つだけ、私の思いつく「深層意識」の例をここであげておこう。これよ6年前に書かれた「春風夏雨」の「絵画」岡潔より。

 「私は一度良寛の書を見たいと思っていた。(途中省略)私はそれを見ると、直ぐわかった。とっさで、何がどうわかったのかわからないが、一切がわかってしまったのであろう。良寛の書がいわば真正の書であることを、少しも疑わないようになったから」

 ここで「何がどうわかったのかわからない」が深層意識の特徴である。現代の我々は意識を重視する西洋の影響を受けて、こういうわかり方ができなくなっているし、また嫌うのではないだろうか。

 さて、文中には蕉門(芭蕉一門)の句が3つあがっているが、この私も時折下手で単純な俳句(私はこういう句の方が好きである)を作ることがある。その時に使っている、あの微かな独特の内面の意識は何だろうかと常々思ってきたのだが、それがこの岡のいう「深層意識」ではないかと思うのである。

 山里は 人知らずとも 梅の春

 白梅や 風は乱れて 雪と花    賢二

 因みに岡の俳号は「石風」である。岡の戒名は「春雨院梅花石風居士」である。

 春なれや石の上にも春の風

 めぐり来て梅懐しき匂ひかな

 この2句は私の家にかかっている岡の色紙であるが、岡は春雨であり梅花であり春風でもある。

   

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