(※解説4)
我々はギリシャ哲学というと、どのような高邁な思想が語られているかと思ってしまうのであるが、ギリシャ神話が「意志と力」の思想から生まれたものだというのと同じように、岡にかかればそのギリシャ哲学の本質は、このように極く低いものとなってしまうのである。我々は一瞬そのギャップに戸惑うかも知れない。
しかし岡は、1970年の講演でこういっている。
「ギリシャや欧米の文化をどんなに調べても、第2の心というものの存在を知っていた人がいたという痕跡は見い出せない。だからギリシャ人や欧米人は第1の心しか知らないのだと思う。」
これをいったのは多分、人類の中では岡潔1人だと思うが、1人もいなければ本当に我々は困ってしまうのである。しかし、世には知られてなくとも確かに1人いたのである。その岡のつかんだ1つの例が、ギリシャ哲学の祖であるソクラテスのこの話である。
岡は西洋の道徳観というものを、このソクラテスを見詰め、その思想の核心をつかむことによって浮彫りにしている。彼等西洋人の特徴は、いわゆる東洋の「道徳」とは程遠い「第1の心」と、片や精密な頭である「前頭葉」であるが、その特徴がこの話にはよく現れている。
さて、東洋や日本の社会の理想は「道徳国家」である。これは「人が先」という前提から生まれた無私の心である「第2の心」が出発点となっているが、西洋社会の理想は「法治国家」であって、これは「自分が先」という前提から生まれた「第1の心」が出発点となっている。
このように東西の「道徳観」は次元が違うのであって、少なくとも「法治国家」では、どこまで行っても網の目をくぐる巧妙な犯罪が増えるばかりで、逆に善良な人間ほど網の目にかかりやすく、真心からの善行が臨機応変に行いにくくなるのである。
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