「嬰児に学ぶ」
【3】 古代数学のはじまり
中国の数学のはじまりは次のようである。中国は東洋人で第2の心のあることを知っている。のみならず、時々目覚めた人が出ている。それで聖人がいたとする。その聖人が、12ヶ月から20ヶ月までの8ヶ月間のことを思い出して、それで散歩の途中ですが、しゃがんで手に石を1つ載せてみる。何だか懐かしい気がする。2つ載せてみる。そんな気はしない。むしろ、1つ放ってしまいたい気がする。で、また1つ載せてみる。しみじみとした気がする。
石をやめて、栗を1つ載せてみる。同じ、何かしみじみとした気がする。それで何を載せても皆そうです。それで、この同じ1つの実感に符丁をつけて1とこうしたんです。2つ載せますと、これも実感は実感ですが、妙に落ちつかなくて、1つ放ってしまいたい気がする。栗でもなんでも皆そうです。この実感に符丁をつけて2とした。
それで面白くなって、明くる日は早くからそこに来て、今度は石を3つ載せてみたとしよう。なんとも知れん複雑な気がするんです。長くかかったでしょうね。大体、これは実感じゃない。というのは意識を通す。で、それをこういろいろ見てますうちに、複雑なのは当たり前で、3は1ばかりに別けることができる。それから2と1に別けることもできる。それから1と2に別けることもできる。こういうことに気づいた。
これは実感じゃありません、意識を通します。意識を通す一種の感覚ですね。この感覚に符丁をつけてとする。これも石であろうと栗であろうと何であろうといっしょなんです。3とする。あと4から10までは皆意識を通します。
で、いろいろそういう意識を通す、これは感覚ですね、感覚に符丁をつけていったんでしょう。そして、この符丁をつけたということを実生活に使ったんでしょう。符丁を実生活に使っているうちに、だんだん順序数も出てくりゃあ、自然数も出てくるようになったんだと思う。こんな風だと思う。
ところで石を1つ手に載せた時に、もうなんとも知れん懐かしいような安定したような気がする。2つ載せると何だか落ちつきのない、放ってしまいたいような気がするというのは、これは余程はっきり目覚めてる人でないとできません。童心の頃のあの頃を憶えてて懐かしいなんていうのは、神でなきゃあできんこと。
だから中国の聖人が数学をはじめたんです。同じことで、インドにおいても当時、東洋人がおった。それからメソポタミアにもそうです。エジプトにも当時、東洋民族がおって、そして、その神々が数学をはじめたんです。
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