「嬰児に学ぶ」
【2】 意識を通さないでわかる
意識を通さないでわかるというわかり方、これは赤ん坊の時はできる。大人になるとできなくなるかというと、やっぱりできている。できているが、意識を通さないでわかるというわかり方の上に、意識を通してわかるというわかり方が覆ってしまっているから、まるで網の目を通して外を見た時のように、気がつかないのである。本当は、意識を通さないでわかるというがあるが故に、意識を通してわかるということがあり得るのである。
文化といえば、真、善、美の流れである。この真、善、美の流れは木にたとえると、根幹は意識を通さない。意識を通すようになってから後は枝葉末節である。欧米人は第1の心しか知らないから、意識を通してわかるというわかり方しか知らない。アメリカ人もそうである。日本は戦後、それを大いに見習った。
これは意識を通してわかるもののみあって、意識を通さないでわかるというものがないからである。たとえていえば、水道管だけがあって水が出ないようなものである。戦後の日本の社会の有様は、水の少しも出ない水道管のような気がする。真、善、美の流れについて、それを申しましよう。
先ず真であるが、学問の流れのうちで一番歴史の古いのは数学である。数学は6千年ないし4千年の歴史を持っている。その数学の思想の流れを見て、いくつかに区分してみる。ギリシャ時代を中世数学という。そしてここに至るまでを古代数学という。
古代数学はどうして始まったかというと、欧米人は生きる知恵が数学になって行ったのだといっている。しかし、本当にそうだろうか。猿は生きる知恵を持っている。しかし、今に猿は猿の数学を持つようになると想像する人はないだろう。そんな馬鹿なことはない。そうすると数学の始まりは一体どんな風だったのだろう。
|