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2015.08.13up

岡潔講演録(16)


嬰児(えいじ)に学ぶ」

【2】 意識を通さないでわかる

 意識を通さないでわかるというわかり方、これは赤ん坊の時はできる。大人になるとできなくなるかというと、やっぱりできている。できているが、意識を通さないでわかるというわかり方の上に、意識を通してわかるというわかり方が覆ってしまっているから、まるで網の目を通して外を見た時のように、気がつかないのである。本当は、意識を通さないでわかるというがあるが故に、意識を通してわかるということがあり得るのである。

 文化といえば、真、善、美の流れである。この真、善、美の流れは木にたとえると、根幹は意識を通さない。意識を通すようになってから後は枝葉末節である。欧米人は第1の心しか知らないから、意識を通してわかるというわかり方しか知らない。アメリカ人もそうである。日本は戦後、それを大いに見習った。

 これは意識を通してわかるもののみあって、意識を通さないでわかるというものがないからである。たとえていえば、水道管だけがあって水が出ないようなものである。戦後の日本の社会の有様は、水の少しも出ない水道管のような気がする。真、善、美の流れについて、それを申しましよう。

 先ず真であるが、学問の流れのうちで一番歴史の古いのは数学である。数学は6千年ないし4千年の歴史を持っている。その数学の思想の流れを見て、いくつかに区分してみる。ギリシャ時代を中世数学という。そしてここに至るまでを古代数学という。

 古代数学はどうして始まったかというと、欧米人は生きる知恵が数学になって行ったのだといっている。しかし、本当にそうだろうか。猿は生きる知恵を持っている。しかし、今に猿は猿の数学を持つようになると想像する人はないだろう。そんな馬鹿なことはない。そうすると数学の始まりは一体どんな風だったのだろう。

(※解説2)

 このわかり方は、我々現代人には非常に苦手なわかり方ではないだろうか。というのも今日の学問や芸術に限らず、日常のテレビやインターネット等の内容のほとんど全ては、それとは逆の「意識を通してわかる」わかり方しか扱ってないように見える。つまり人の意識を刺激して、人を「ハッ」とさせてわからせるようなことが、わかり方の基調となっているような気がするのである。

 しかし、日本文化の「(すい)」といわれるものは西洋と違って、概して「意識を通さないでわかる」わかり方が主流ではないだろうか。岡はこの感性を「(かそ)けさ」といっているが、自分でも何がどうわかったのかわからない、非常に繊細優美なわかり方である。

 日本文化の中では「俳句」がその典型ではないだろうか。芭蕉の俳句のように俳句の極めて良いものは、全て「余韻」を感じさせられるのである。

 これが俳句の命であるが、岡はこれを「調べ」といっていて、本人にも仲々自覚できないが、何かしら微かなメロディーが心の中で鳴り響くのである。まるで秋の「虫の音」を聞くように。私は大野の絵にもそれを感じるから、このサイトに載せているのである。

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