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2017.01.24up

岡潔講演録(23)


「1971年度京都産業大学講義録第23回」

【10】 芭蕉の2句

 それじゃ芭蕉はどうかと云うと、2つある。1つは、

 『春雨や蓬をのばす草の道』  芭蕉

 この句は黄老の道の「草をのばすはこれ天の道、草を除くはこれ人の道」という言葉をふまえています。それで草の道とした。

 春雨や蓬をのばす草の道  芭蕉

 だから内容は、春雨が小止(おや)みなく降り続いている。咋日もそうであった。一昨日もそうである。そのため草の道の蓬はどんどんのびて行く。草の道はそれを見ると嬉しくて仕方がない。その喜びを見ると春雨も嬉しくて仕方がない。それで小止みなく降り続いている。明日も小止みなく降り続けるであろう。明後日もそうであろう。こういうの。この調べを聞いていると、わたしは『万古の春雨』という気がする。すなわち万古という気がする。

 もう1つある。

 『ほろほろと山吹散るか滝の音』  芭蕉

 滝と云ってもこれは非常な急流という意味です。ゴオーと鳴ってる非常な急流。ところがどんな急流でも、人がそれを聞くから人の心にその急流があるのであって、人の心には注意がそれる時というのがある。だからゴオーと鳴ってる滝の音にも静寂(しじま)というものがある。その静寂で山吹を見てみると、ほろほろと散る微妙な山吹の散り方が初めてわかってくる、こういう意味です。このほろほろと散る微妙な散り方は物質ではない。滝の音などのような物質ではない。だから物質から生じるものではない。だからどれほど遡ってもあるものである。『不生』。だからやはり万古という気がする。『万古の山吹』。

 これは万古の春雨であり、これは万古の山吹。この2つは抱朴子の挿し絵に優るとも劣るものではない。時間あとどれくらい?じゃもうこれでやめます。

 だから何よりも、我々は真情、こころと云うものが不死であることを知って、これを無限向上させるのが、すなわち深めて行くのが、これが人のするべきことだと知ってなければなりません。しかしなるべくは、それをするために、地球上に人類が住めないなどというようなことにはしない方がよい。だから人類は今くらい無知であることを自覚出来る時はないのだから、それをよく自覚させて、あまり慎みのないことはさせないようにしなければいけません。とりわけ戦争をおっ始めるなど、言語道断です。これで。

(※解説10)

 数ある芭蕉の俳句をこの2句にまで絞り込むとは、流石に「如の里の住人」岡である。

 この時期にいっていたと思うが、万葉集の中でも本当に格の高いものは数首しかないといっている。そこまで見抜ける人が何処にいるだろうか。それほど岡の眼力は鋭いのである。

 これは眼力が鋭いというよりも、いわゆる「境地」が上がるからである。晩年の岡の境地の進展は凄まじいものがあって、初めは上に見えていたものが、次第に下に見えるようになるのである。我々の評価眼とは次元が違うのである。

 ではこれより3年前の、岡がこの2句に絞りこむ前段階の芭蕉の句をここで紹介しておこう。「葦牙(あしかび)会発足」1968年12月より。

 先ず岡は「四季」の句から拾っている。

 春雨や蓬をのばす草の道

 行く春を近江の人とおしみける

 蛸壷やはかなき夢を夏の月

(しず)かさや岩にしみ入る蝉の声

 秋もはやはらつく雨に月の(なり)

 秋深き隣は何をする人ぞ

 こもり居て木の実草の実ひろはばや

 次に「梅」の句を3句あげている。

 梅が香にのっと日の出る山路かな

 山里はまんざい遅し梅の花

 梅若葉まりこの宿のとろろ汁

 次は「桜」3句

 観音のいらか見やりつ花の雲

()のもとは汁も(なます)も桜かな

 散る花や鳥もおどろく琴の塵

 その他の「花」3句

 ほろほろと山吹ちるか滝の音

草臥(くたびれ)て宿かる頃や藤の花

 あじさいや薮を小庭の別座敷

 これが岡から見た芭蕉の世界である。何と濃やかな豊かで美しい世界ではないか。まさにこれが道元の言葉「はなてば手にみてり、一多のきわならむや。語ればば口にみつ、縦横きわまりなし」の世界である。

 「正法眼蔵」第1巻 「弁道話」より

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