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2017.02.18up

岡潔講演録(24)


「情の発見」

【3】 知や意は非情

 これは、それが便利だとか、都合がよいとかよくないとかいうことではなく、情を自分だと思ったら、あるいは心を自分だと思ったら、そうすることが心を自分だと思う地域では、心を自分と思ってしまう。その人達に情を自分だと思えと云っても思えないのだろうと思う。

 同じように日本人は、情以外のもの、非情を自分だと思えと云っても思えなかろう。知や意は非情です。情は自分だが知や意は自分ではない。自分は知や意を使う。それは自分ではないとしか思えない。だから便、不便の問題ではなく、そうとしか思えんようになってしまっている。そういうわけです。

 情を自分だと思うと万事非常にうまくいくんだが、釈尊や老子や孔子も知を中心に説いたというのは、その地域の人達は心を自分だとしか思えないからでしょう。そうだろうと思う。情中心に説けば非常にうまくいくぐらいのことはわかりそうなものだけれども、そんなふうに思えなきゃ仕方のないことだろう。

 で、日本人は情を中心と思えるだけじゃなく、情を自分だと思える。情以外のものは自分だとは思えなかろうと思う。知や意が自分だとは思えない。それで情について少し詳しく云いましょう。

(※解説3)

 ここでいう「非情」とは、一般的な意味での「非情」とは少し違う。「情の要素がない」というくらいの意味である。

 しかし、ここは「そう思えるか、思えないか」というところであって、言葉でいえば簡単なのだが、「思える」ということは実は大変難しく、本当にそう思えるためには長い時間がかかるのである。

 何故かというと、「思う」ということは「意識的」にはできないことだからである。人は行きたいところへ行き、したいことができる筈である。これは「意識的」にできるからである。しかし、「思う」ということはそれができない。そう思えといわれても、仲々そうは思えないのが人である。

 だから我々日本人が「無意識的」に情を自分だと思えるというのは、実は大変なことであって、最低10万年はかかっていると岡はいうのである。それは何故かというと、30万年前には同族であった知を重視する中国民族と我々が別れたのは、今から10万年程前であると岡は考えているからである。

 ともかく日本人は、知や意は「非情」だと思う直感を生まれた時から持ち合わせているのである。これが「クールジャパン」の隠れた根拠である。

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