(※解説10)
ここはキリスト教よりも本当は東洋思想の批判である。その中では仏教が最もわかりやすいのだが、仏教は煎じ詰めれば般若心経の「般若」、つまり「知」を目標にする。そして、やってることを見れば難行苦行である。岡は別のところでこういっている。「難行苦行は意志の修行です。こんなことしたって何にもならないのです」と。ただ、難行苦行と岡の重視する精神統一とは別のものであることに留意すべきである。
本文に「アラヤ識を抜け出す」という岡の言葉があるが、アラヤ識は私の自論では自己抑止の「意志の世界」であるから、難行苦行はこの世界での修行ということになる。また、第9識(真如)は知の世界であるから「指さす指のようなもの」、つまり日本人には仲々ピンとこない「観念の世界」だと岡はいうのである。
だからこのように何時までも「知と意」にしがみついて、この2つの世界で修行するから、「そこを抜け出すのに非常に長くかかる」と岡はいうのである。
仏教や儒教や道教というと今でも人類の思想的な宝であるが、岡はそれらを軽々と手の平にのせて、誰にでもわかる言葉でこのような指摘をしてくれているのである。私は日本語がわかる日本人でつくづく良かったと思う。
猶、岡は新約聖書のキリストの言葉から判断して、キリストは天の月読の尊が西洋へ生まれていったと見ているのである。その理由は、西洋の猛々しい心を柔らげるために。従ってキリストは日本の「情の世界」を説いたのであるが、それを受け取った西洋人自身は邪性、妄性の「第1の心」から離れられないから、聖書は「第1の心」の言葉で「情の世界」を説いたものである。だから「情」ではあるが、「浅い」と岡はいうのである。
柔和なる者は幸いなり その人は地を継ぐことを受べければなり キリスト
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