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2017.02.18up

岡潔講演録(24)


「情の発見」

【9】 孔子の道徳も知

 自分というと情でしょう。隠したりいろいろしてますが、自分にはよくわかる。その自分というのは情でしょう。隠してはもっともらしく知で話したり、いろいろしてますが、本当の自分は情でしょう。知や意がいかに説得しても、情が承知しない。ところが情さえうまくいっていれば、それでよい。そうであるということを考えてみればわかる。

 情が自分だということ。日本人なら(たなごころ)を指すが如くわかる。いろいろ隠したり、体裁つくったりしているが、みんな情を被い隠して知や意の言葉で云っているでしょう。だけど内実はそうじゃない。

 想像できませんよ、東洋人がどんなふうか。情で云った方が早いのに、人本然の情に照らしてみよと云や、道徳なんて説明するにおよばん。それを知で云うから、知だったら聞かなきゃ、何が道徳で何が不道徳かわからんでしょう。で、孔子なんか、みな説かなきゃならん。

(※解説9)

 岡はこれより3年前の1969年のどこかの録音の中で、確かこんな風にいっていたと思う。「日本人の日常を見直すことによって、全く新しい思想が生まれる。ここまで来れば外に頼るべき何物もない。日本人の心の中に全てのヒントがある」と。

 私はそれを聞いた時、岡の日本人に対する自信に、ちょっとそれは言い過ぎではないかとさえ思ったものである。しかし、こうして蓋を開けてみれば、実はこういう理由があったのである。それが西洋の「第1の心」ばかりではなく、東洋の「知」との違いである。

 そういう目で見れば、ここも岡は日本人の内面をよく見てるなあと私は思う。「みんな情を被い隠して知や意の言葉でいっている」。正にその通りだ。私の日常を振り返ってみてもそうだから。

 さて、孔子の道徳であるが、ここも凄いところであって、長く人類を導いてきた東洋思想の根底が正にここでひっくり返っている。「道徳を知でいうから、何が道徳で何が不道徳か聞かなきゃわからん」。「人本然の情に照らしてみれば、道徳なんて説明するに及ばん」。日本人なら「成程」と思うところである。

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