(※解説8)
先にも出てきた言葉だが、これは凄い言葉である。それは「情を自分だと思ったら六道輪廻しない」である。こんな発想が浮かぶ人があるだろうか。岡は「情」の属性に、ひいては日本人に余程自信を持っているのである。
そしてここでは般若心経ばかりではなく、光明主義でさえも「知」であるといっているが、この辺で初めて仏教の本質は「知」だと確信を持つに至ったようである。
更に「知」を観念といい「情」を認識といって、観念は指さす指、認識はその対象を見ることといっているが、この表現は実におもしろい。岡はここで「知と情」の違いの本質に明確に気付いている。
さて、般若心経であるが、これは「空」ということを徹底した文章である。人によっては「空」とは「ただ何もない」ということではなく、「無尽蔵の空である」というような表現を使うこともある。私もその方向だとは思うが、それでは何が無尽蔵なのか。
私の言い方でいえば、多分その人は目に見える物質ではなく、目には見えない法則(知)とエネルギー(意)が無尽蔵の「空」だといいたいのではないだろうか。
しかし、まだそれだけでは物質の世界を構成する形式、岡の表現では物質の世界の「カラクリ」を説明したに過ぎない。何かが足りないと私は思うのである。
我々が自然を見てまず感じるのは、自然のもつ美しさと豊かさである。しかし、そのような直感は法則とエネルギーからは生まれてこない。我々は「情緒」というものを自然から感じ取るのであって、その「情緒」こそが自然の究極の実在なのである。老子のいう「如」である。
岡はこういっている。「空とは真情だけが残ることである」、「情緒は生があって滅がない。情緒は豊かになる一方である」と。人類のこれからの心の方向性は、この辺にあるのではないだろうか。
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