b 岡潔講演録(24):【 8】 般若心経は知
okakiyoshi-800i.jpeg
2017.02.18up

岡潔講演録(24)


「情の発見」

【8】 般若心経は知

 情を自分だと思ったら六道輪廻しない。日本人が六道輪廻した、そういう例は知りません。

 般若心経なんか、あれはみな知です。ちっとも日本人に合わん。「五蘊皆空(ごううんかいくう)唯有識心(ゆいうしきしん)」と云いますが、真情の中に無明はありません。知や意を入れるからはいる。日本人はこういうものであるということは、既に光明主義を残して下さらなかったら ― ともかく光明主義わからなかった。ところが最近4番目の孫が生まれた。その孫は生まれてから絶えず、一口に云って、私と一緒に住んでいる。だから絶えず見ている。それで心の生い立ちが非常によくわかった。

 それ以来非常によくわかる。光明主義は観念です。観念は知である。ところが日本人は情、情だったら認識する。認識するには対象がいる。それで孫が生まれる迄さっぱりわからなかった。観念は指差す指のようなもの。その向こうを見て認識する。その見る対象があれば出来る。

(※解説8)

 先にも出てきた言葉だが、これは凄い言葉である。それは「情を自分だと思ったら六道輪廻しない」である。こんな発想が浮かぶ人があるだろうか。岡は「情」の属性に、ひいては日本人に余程自信を持っているのである。

 そしてここでは般若心経ばかりではなく、光明主義でさえも「知」であるといっているが、この辺で初めて仏教の本質は「知」だと確信を持つに至ったようである。

 更に「知」を観念といい「情」を認識といって、観念は指さす指、認識はその対象を見ることといっているが、この表現は実におもしろい。岡はここで「知と情」の違いの本質に明確に気付いている。

 さて、般若心経であるが、これは「空」ということを徹底した文章である。人によっては「空」とは「ただ何もない」ということではなく、「無尽蔵の空である」というような表現を使うこともある。私もその方向だとは思うが、それでは何が無尽蔵なのか。

 私の言い方でいえば、多分その人は目に見える物質ではなく、目には見えない法則(知)とエネルギー(意)が無尽蔵の「空」だといいたいのではないだろうか。

 しかし、まだそれだけでは物質の世界を構成する形式、岡の表現では物質の世界の「カラクリ」を説明したに過ぎない。何かが足りないと私は思うのである。

 我々が自然を見てまず感じるのは、自然のもつ美しさと豊かさである。しかし、そのような直感は法則とエネルギーからは生まれてこない。我々は「情緒」というものを自然から感じ取るのであって、その「情緒」こそが自然の究極の実在なのである。老子のいう「如」である。

 岡はこういっている。「空とは真情だけが残ることである」、「情緒は生があって滅がない。情緒は豊かになる一方である」と。人類のこれからの心の方向性は、この辺にあるのではないだろうか。

Back    Next


岡潔講演録(24)情の発見 topへ


岡潔講演録 topへ