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2017.05.02up

岡潔講演録(26)


「情の世界」

【1】 自然科学はここまで

 (本稿は、昭和47年4月2日、会員数人にて岡潔先生のお宅をお訪ねした折、お話して頂いたものです。)

 素粒子論は、物質とか質量の無い光とか電気とか、総て素粒子によって構成されていると云う。素粒子には種類が非常に多い。しかし、これを安定な素粒子と不安定な素粒子の2群に大別することが出来る。

 不安定な素粒子は極めて寿命が短かい。普通のものはどれくらいかと云うと、生まれてきてすぐ消えていってしまう。普通のものは100億分の1秒ぐらい。

 こんなに短命だけれども、非常に速く走っているから、これくらいの寿命のものでも、生涯の間には1億個の電子を歴訪する。電子は安定な素粒子の代表的なものです。なお、不安定な素粒子群の中にも、質量を持っているものがある。こう云うのです。

 そうすると、物質という不生不滅のものはない。まず、そういうことになる。それから、不安定な素粒子の生まれてくる前の状態、および消えていってしまってから後の状態は、五感ではわからない状態である。

 自然科学は1、2例外がありますが、だいたい五感でわからないものは無いという仮定のもとに調べたものです。だからこの結果の全体に信を置くことが出来ない。

 すなわち、素粒子論が出たということは、自然科学が無くなってしまったということです。更に自然をよくみてみますと、自然というものは常にじっと存在するもの、人はそう思ってきましたが、不安定な素粒子は生まれてきてまたすぐ消えていってしまっているのなら、これは映像であって存在じゃない。

 そうすると、少なくとも自然の一半は、映像だということになる。じゃあ、他半はどうかというと、安定な素粒子は ― 例えば、電子はどうかと云うと、電子の側から云えば、電子は常に不安定な素粒子の訪問を受けているということになる。

 そうすると、安定しているということが確かなのはその位置だけであって、内容は絶えず変っているのかもしれない。自然科学はここまでです。

(※解説1)

 岡はこの講話では「心の世界」を重点的に説きたいのだが、しかし何時ものことながら自然科学の先端である素粒子論の批判からはいっている。しかし、その分量はわずかであって、ここは簡単に済ませたいとの思惑が伝わってくるのである。

 それはつまり、当時の素粒子論を徹底的に突き詰めると、物質を基に考える自然科学の自己否定しかないと岡はいいたいのである。これは自然科学の自然消滅を意味するものである。

 猶、「自然科学は1、2例外がありますが」といっている例外とは、「引力」のことである。

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