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2017.05.02up

岡潔講演録(26)


「情の世界」

【2】 素粒子論の結果

 それから先どう思うかということですが、そんなふうだったら、安定な素粒子も安定しているのは位置だけであって、内容は変っている。そう思われる。そうでなきゃ、絶えず変わるものとちっとも変わらないものとが混じっているというのは、どうもおかしい。そうだとすれば、自然は映像であって存在ではない。

 そうすると、自分の体も映像だということになる。自分とは一体何んだろう。何が一体どうなってるのだろう。これが人知の現状です。人はこれを知らない。一体どういうわけだろう。何故こんなわかりきったことがわからんのだろう。

 自然について一番知りたいことは何かと云えば、不安定な素数子はバケツに何かを入れて、安定した位置へしきりに何かを運んでいる。一体何を運んでいるのだろう。これがわかれば自然の実体もわかるわけですが、これは到底わかりそうもない。自然は全くわからない。

 いちばんわからないのは、自然科学をつくり出した欧米人が、何故この結果を知らないのだろう、見ることが出来ないのだろう、ということです。どんな結果を自分達が出したか、彼らは全然知らない。

 自分とは何んだろうと云いましたが、何もわからないんだったら、ともかく一番知らなきゃならないのは自分とは何だろうということです。

 人は自分という言葉を非常によく使っている。だから無意識的には自分とは何か知っている。こんなものを自分だと思って、そして使っているに違いない。でなきゃ、使われやしない。

(※解説2)

 自然科学の限界は以前に解説したように、極大の天文学からもわかるのだが(講演録⑷自然科学は間違っている⑶五感でわかるもの)、岡はその方面からの説明はあまり残してはいない。しかし、当時最先端の素粒子論の結論を徹底的に考察することによって、自然科学の限界を明確にしようとしているのである。

 そしていうのである、「どんな結論を自分たちが出したか、彼等(西洋人)は全然知らない」と。これは素粒子論だけの問題ではなく、西洋人の世界観である「唯物論」の限界をさらけ出したことに他ならないのである。

 そして、それに替わる新しい世界観として「心の世界」を持ち出して、物質の世界は「心の世界」とは無縁に独立して存在するのではなく、「心の世界」に依存し支えられて存在するのだというのである。これを一般に「唯心論」というのである。

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