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2017.07.19up

岡潔講演録(27)


「情の構造」

【18】 スパルタの競技

 それほど日本人以外の人には、情が自分だと教えるのはむつかしい。そんなもん、ギリシャ神話をみてご覧なさい。力が強いのが偉いんでしょう。それから、スパルタでどんなことをやっていたか。なんか乱暴なレスリングのようなことをやったらしい。

 ある男が他の男の首をしめた。そうすると、首をしめられた方は、首をしめられながら他の男の足首をねじ曲げて、骨を折ろうとした。それで、その足首をねじ曲げられた方が痛みに耐えかねて降参した。もっとも、その時は足首折れていた。それでもう1人の方に勝利の栄冠を与えようとして見たら、首をしめられてすでに死んでいた。だからその時の勝利者は死んだ方だと、こういうふうだったらしい。

 だいたいスパルタの競技というのはこんなものだったらしい。そしてギリシャ文明を代表していると、その人は云っている。そうかなあ、そう聞けばそうかもしれん、僕はアテネだと思っていたんだけどと思いました。昔からそんなふう。

 力じゃない、情だと教えるのがどんなにむつかしいか。力は非常な濁りです。知も濁りです。それをわからさなきゃ。偉いとかあかんとかいうのもひどい濁りです。真情の世界に偉いあかんの別はない。

(※解説18)

 「ギリシャ神話をみてご覧なさい。力が強いのが偉いんでしょう」と岡はいうが、こんなことは西洋のギリシャから今日にいたる征服につぐ征服の歴史を見れば直ぐわかることではないだろうか。日本が激しく対外戦争をしたのは、その西洋文明の圧力が日本に及びはじめてからである。

 「意志と現識としての世界」を書いたショウペンハウエルがいうように、西洋は本来「意志(力)」の文明であり、日本は本来岡のいうように「情」の文明である。だから「それほど日本以外の人には、情が自分だと教えるのはむつかしい」と岡のいうのは本当に本当なのである。

 さて、この「情の構造」をもって私が最も伝えたかった「情のシリーズ」は終るのだが、この「情」を発見したのは人類の中でも岡潔1人であるから、その内容はにわかには信じがたいことかも知れない。しかし、これからジックリと時間をかけてここを確認していくことが、我々日本人の人類に対する責務ではないかと思うのである。

 猶、次の解説は一度原点に戻って、私が38歳の時夜突然目がさめ岡亡きあとの岡家へ行こうと決意した記念碑的作品である、復刻版「日本民族の危機」の中に収められている「真我への目覚め」1967年をお伝えしようと思う。

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