(※解説4)
皆さんもここを読んで「見える」ということは不思議だなーと思えるだろうか。こう思えるか思えないかが、岡のものが本当にわかる分岐点なのである。
岡は別のところでこうもいっている。「医学では、目からはいった光が網膜に映像を映す。その映像が視神経を伝って視覚中枢に達す。そして、その視覚中枢がその映像を見るから、外界が見えるのであるという。しかし、これでは全然問題が解決していない。目ではなく視覚中枢が何故見えるのか、という問題が再び登場しただけである。これでは循環論法」と。
岡のよく使った言葉「真新しい知情意」をもって、西洋の世界観に染ってしまったメガネを捨てて、世界を見直すことである。この問題に気づいたのも現代では岡一人ではないかと思うのだが、そのはじまりは岡の7歳の時であったというのだから、やはり天才である。
猶、「これについて、随分詳しく書いた文献がある。それは仏教の中にあります」と岡はいっているが、それは無差別智が学説の中心である山﨑弁栄の光明主義である。光明主義では4種類の無差別智(直観)によって「見える」ということを説明しているのである。
ここに光明主義による岡の簡潔な説明をあげてみる。「一葉舟」1968年より。
仏教はこう教えてくれている。目を開けて見ると山が見える。それが山とわかるのは大円鏡智の働きである。山の色形がわかるのは成所作智の働きである。山の心までわかるのは妙観察智の働きである。実際あるとしか思えないのは平等性智の働きである。そうか、生命現象はこんなふうに説明されていたのか。
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