「真我への目覚め」
【6】 何故運動できるのか
見るという働きはどうしてできるか、何故見えるのか、というと「無差別智が働くから見えるのだ」というのです。これは無意識裏に働く。だから、働いているということを知らない。その効果も一時に出てしまう。アッと思ったら見えてしまっている。だから、無差別智もわからない。それで、眼をあけると見えるのが不思議だと思うのです。でも普通、不思議だと思うべきを、それさえ思わない人が多すぎるようです。
ところで、4種類あるそのどれが働くのかというと、4種類ともに働くのです。人は生きているから知覚運動をする。その知覚のうちで根本のものは、見るという働きですから、それについて説明したわけですが、おそらく外も同様でしょう。
知覚の方はそれくらいにして、身辺のことのうち、運動を見てみます。私、今、腰かけています。立とうと思うとこのように立ちます。これ又、当然不思議と思うべきはずです。全身四百いくらの筋肉がある。それらが統一的に働くから立つことができた。考えれば考えるほど不思議ではないですか。立つという動作はいろいろあって、決して1つではない。スックと立つのもあればフラフラと立つのもあり、今、私がしたように立たんがために立つのもあります。
これ、不思議と思うのは、無差別智のような知力があることを知らず、理性のように順々にわかっていくような知力しか知らないからです。これも無差別智の働きで、但し、これは、見るという働きよりも、随分簡単とみえまして、唯一種類の無差別智しか働かない。それは、妙観察智(宋音だから濁る)です。
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