(※解説19)
ここは小我の「意志の異常」である「修羅道」の説明である。 人は本来「共生」すべきところを対立、競争、闘争の世界に住んでいると思うのが「修羅道」である。だから「この世界には喜びがない」と岡は断言する。
ショウペンハウエルは「意志と現識としての世界」の中で、「我々西洋人は意志の世界に住んでいる。この意志を退き去れば、この世界も我々も消滅する。しかし、そうすることが一番道徳的である」といっているが、西洋はもともと文明の底流はこの「修羅道」である。
ともかく西洋は何をやっても「対立と競争」になる。例えば彼等にすこし大き目のボールを渡したとする。そうするとそれを激しく蹴りあって相手のゴールへねじ込む「サッカー」となるのである。その技術と戦略(これは大脳前頭葉の働き)はとても我々の及ぶところではない。
それに対して、我々日本人はどうだろう。例えば平安時代になるのだろうか、宮中に「蹴鞠」というのがある。あれを見てみると、人々が輪になって球を蹴り合うのだが、それはお互いに蹴りやすいように蹴って、球を落とさないように蹴るのが理想である。サッカーとは正反対である。しかもその周辺には桜、柳、楓、松という季節感あふれる植物を植えているのである。
これをただ古臭いと即断してはいけない。平安時代は約1000年前であって、現在の我々から見れば確かに古臭いかも知れないが、西洋の「対立と競争」から日本の「共生と風情」に心の構造が変わるには20万年はかかっていると岡はいうのである。つまり、日本人が1000年前にやっていたことは、西洋からすると20万年進んでいることになるのである。
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