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2017.11.09up

岡潔講演録(28)


「真我への目覚め」

【19】 熾烈な生存競争

 人が、小我を自分だと思うようになると、人は一人一人個々別々であるようになる。それがわかってみれば、底知れず淋しい。これを感じることを〝無常を感じる〟といっている。それが、仏門へ入る正門だとされています。欧米人は、そんなにシャープではないから、そこまではわからないが、なにしろ頼れるものは自分だけだと思いますから自ずと、文明の内容は生存競争になっていく。生存競争というのは獣類時代の特徴で、トカゲ時代はのんびりしていたのです。

 だから、今、文明の内容が生存競争であるなら、実際は、まだ獣類時代あって、人類は単に形が出来ているというだけで、本当の人類時代はまだ来ていないといえます。しかも獣類時代のうち、いまくらい生存競争の熾烈な時はありません。それなのに、それも知らないでいる。

 科学にしても、あまり何もわかっていないのに、不幸にして、破壊力だけは非常によくわかっている。すでに、水素爆弾もできている。だから、人類滅亡の危機は既に来ているのです。これを救うためには平和を教えなくてはいけない。平和とは何でしょう。ようく考えて下さい。

  〝真我が自分だ〟ということに目覚めなければ、真の平和なんかありはしません。人が、真我が自分だということに目覚めたら、生存競争なんて、そんな馬鹿なことは決してするものですか。真我的になってくると、動物は一切殺さないし、若草の芽さえ踏まない。こうだから、真の平和が来るのです。

(※解説19)

 ここは小我の「意志の異常」である「修羅道」の説明である。 人は本来「共生」すべきところを対立、競争、闘争の世界に住んでいると思うのが「修羅道」である。だから「この世界には喜びがない」と岡は断言する。

 ショウペンハウエルは「意志と現識としての世界」の中で、「我々西洋人は意志の世界に住んでいる。この意志を退き去れば、この世界も我々も消滅する。しかし、そうすることが一番道徳的である」といっているが、西洋はもともと文明の底流はこの「修羅道」である。

 ともかく西洋は何をやっても「対立と競争」になる。例えば彼等にすこし大き目のボールを渡したとする。そうするとそれを激しく蹴りあって相手のゴールへねじ込む「サッカー」となるのである。その技術と戦略(これは大脳前頭葉の働き)はとても我々の及ぶところではない。

 それに対して、我々日本人はどうだろう。例えば平安時代になるのだろうか、宮中に「蹴鞠(けまり)」というのがある。あれを見てみると、人々が輪になって球を蹴り合うのだが、それはお互いに蹴りやすいように蹴って、球を落とさないように蹴るのが理想である。サッカーとは正反対である。しかもその周辺には桜、柳、楓、松という季節感あふれる植物を植えているのである。

 これをただ古臭いと即断してはいけない。平安時代は約1000年前であって、現在の我々から見れば確かに古臭いかも知れないが、西洋の「対立と競争」から日本の「共生と風情」に心の構造が変わるには20万年はかかっていると岡はいうのである。つまり、日本人が1000年前にやっていたことは、西洋からすると20万年進んでいることになるのである。

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