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2017.11.09up

岡潔講演録(28)


「真我への目覚め」

【21】 真我の情

 まず、情ですが、私、30位の頃、3年ほどパリに居たのですが、日本においては水や空気のように普段あるから気づかないが、日本にあってフランスへ来たらないものがある。何か、非常に大切なもののうちにそういうものがある。一体、それは何だろうという問題に突き当りました。

 それで調べてみた。だんだん調べたんですが、フランスにセザンヌという大画家がいます。景色を非常によく書いている。しかし、セザンヌの風景画をじっと眺めていますと、何だか淋しくなって来る。

 当時、丁度、対比する絵は知りませんでしたが、日本で、例えば、啄木だと

  ふるさとの山に向かいていうことなし
  ふるさとの山はありがたきかな

こんなふうです。それは故郷だからと言われるかもしれないが、セザンヌの書いた景色も故郷の景色です。また芭蕉は、

  旅人とわが名よばれん初時雨

こんなふうです。暖かく自然に抱かれている。見ていて淋しいとは思えません。

(※解説21)

 ここからは真我の「知情意」の説明に入っていくのだが、もともと岡は「情緒」という言葉を使い、「情」を最も強調してきたのであるから、この辺から岡の言葉にも力がはいってくる。

 フランスへ行ってまず岡が気づいたことは、「非常に大切なもので、日本にあってフランスに来たらないものがある」というのである。普通であれば絢爛たるフランス文化に圧倒されて、そんなことは夢にも思わないのだろうが、この直観がピンとひらめくあたりが流石に日本民族の中核、岡潔である。

 現代の我々は日本文学の古典である「芭蕉」や「万葉集」を読んでみても、ただ古典としての歴史的価値があるというだけで、一体どこが良いのだろうかと思ってしまいがちであるが、岡はここで見事にその謎に回答を与えている。

 つまり根本の「自然観」が違っているのである。西洋は時間空間の中で人と自然とは自他対立し、人は自然から孤立しているのである。だからそれが絵に現れて、セザンヌの絵でさえも「何だか淋しくなってくる」のである。今までセザンヌを絶賛するだけで、果してこういう風に捕らえ得た人がいただろうか。

 しかし、日本では人と自然とは目では見えない「情」でつながっているから、人は「暖かく自然に抱かれている」という風になるのであって、これが日本特有の「情緒」であり「風情」である。日本が誇る古典である「芭蕉」や「万葉集」の世界とは、実はこういう世界なのである。

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