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2017.11.09up

岡潔講演録(28)


「真我への目覚め」

【23】 芭蕉の俳句

 それから、これもやはりフランスにいる時思ったが、芭蕉の一門 ― これを蕉門といいますが、この蕉門の人達は、実に、良い句を詠むために生涯をかけている。全く生涯をかけて名句を詠もうとしている。ところが、名句というのは、芭蕉のいうところによると、普通は、1句か2句、10句もあれば名人だという。

 俳句は、5・7・5というような短詩形です。俳句は、今日、非常に良い句が詠めたと有頂天になっていても、明日はその反動でつまらないと思ってしょげるかもしれない。こんな頼りないものの1、2句に生涯をかけるというのは、まるで薄氷に体重を託すようなものだ、そんな気がしました。

 それで、何故だろうかということが知りたくて、芭蕉俳句集とか芭蕉七部集だとか芭蕉連句集とか ― これらみな岩波文庫にあります。それから、芭蕉遺語集、これは改造文庫にありましたが、今では、赤ぞうし、黒ぞうし、外に何か2つほど書いてあったのが岩波文庫に出てますが、そういったものを日本から取り寄せて調べてみた。調べてみたが、この問題は、フランスにいる間はわからなかった。日本に帰って、だんだんわかってきた。

(※解説23)

 岡がフランスへ行って逆に日本を知るために、芭蕉を研究しはじめたというのはただの偶然ではない。芭蕉の俳論を読んでみると、岡が晩年追求した「情の世界」を知る上でのヒントに溢れているのである。だから岡はある録音に中で「芭蕉のような大文学は(人類に)今後も出ないでしょう」といっている。

 ところが岡と同じ京都大学にフランス文学の権威、桑原武夫という人がいる。この人は「俳句第二芸術論」を提唱し、西洋の厖大な分量の小説などが文学の正統であって、俳句は第二芸術としての位置しか与えられないというのである。

 何ということだろう、岡にいわせれば「心の世界」のバロメーターは「大小接近彼此の別がない」といって「質」、つまり境地の「高さ」であって「分量」ではないのである。戦後の文学や芸術の評価は全てこれと似たようなものであって、一流の大学教授といえどもそこがわからなかったのである。

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