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2023.02.13up

岡潔講演録(29)


「岡潔先生と語る」 (1)- 東洋と西洋の融合 -

【4】 東洋と西洋の融合

 (男性)先生ここに(岡先生の書いた色紙の写真を見ながら)(末尾に添付)東洋の宗教と西洋の科学とを融合して生命の科学を作り、それによって新しい道徳、学問、芸術、宗教、教育、経済、政治を作り、それを実地に応用して理想的な国を造ろうと云うことが書いてありますが、これはどういうことか具体的にお話しして頂けませんでしょうか。

 (岡)結局僕、同しこともう一ぺんしゃべるようなことになってしもうだろうけど、まあ質問があったから云うんで、僕が同じことを云ってるんじゃないんだから。(笑)

 日本は明治以後西洋の思想を取り入れて、その中に住んでる。終戦後は、西洋って云ったら欧米です、今で云えば欧米です。昔から云えば、主としてギリシャ、ローマが欧米です。ところで西洋 ―― どっちから云おうかな。じゃ、まあ、西洋から云おう。西洋、西洋ったら今なら欧米。西洋の学問、思想 ―― ったらつまり西洋の全体ですな ―― 見てみますと、西洋の学問、思想、つまり西洋の一切の知的なものは、時間、空間の枠の中にとじ込められてある。カントは「時間、空間は先験観念である、自分はこれ無しには何も考えられない」、そう云ってます。はっきり云ってるのはカント一人ですが、仔細にみますと、西洋の学問、思想で時間、空間の枠の中に無いもの、枠から外に出てるものは何一つ無い。キリスト教なんかも、キリスト教の天地創造は神が天地を創造するより前に、時間、空間というものがあると、こう云ってる。

 じゃあ東洋はどうかって云うと、東洋は自然は映像である、からだも映像である。第一の心、心理学が対象にしてる心、感情、意欲、理性の主人公、これも映像である。第二の心だけが実在するのだ、そう云ってるんです。それから、その第二の心の中には時間も空間も無いと云ってるんです。

 そうすると時間とか空間とかいうものは実在しないと云うことになる。ところが西洋の学問、思想のことごとくはその時間、空間の中にとじ込められてある。じゃ一体時間、空間というものは実在するのかと云いますと、今日では時間とか空間とか云うものの実在を証明出来ると思ってる数学者は最早一人もいない。実在するということは証明出来ないのです。で、結局時間、空間というのはどういうものかと云いますと、空間は見えるからあると思う、時間は空間に直して云い表すことが出来るからあると思う。だから結局、両方とも見えるからあると思ってるんです。そうすると西洋の学問、思想の一切は、視覚というものに支えられて初めてあるんです。知的に存在の証明出来るものではない。

 西洋人は大体五感でわからないものは無いと思う。望遠鏡で見るとか、電子顕微鏡で見るとか、いろいろ工夫して初めて五感にうったえるようにしても、それはかまわない。しかしどれほど工夫しても結局五感にうったえて来ないものは無いのであると、こう思ってるんです。こういう思想を持ってる。これが唯物主義ですね。

 この唯物主義に基づいて、まだ五百年にはなりませんが、四百年以上も自然を科学した。そうすると、とうとう素粒子というものが見付かった。素粒子論はどう云ってるかと云いますと、物質は総て素粒子から成っている。また質量の無い電気とか光とかいうものも総て素粒子によって構成されている。素粒子は種類が多い。しかしこれを二群に分かつことが出来る。安定な素粒子群と不安定な素粒子群に。その不安定な素粒子群は極めて寿命が短い。最も長命と云われてるものでも百万分の一秒位。普通は百億分の一秒位。最も短命なものとしては一万兆分の一秒というものも知られている。

 そうすると自然はじっと存在するんじゃないんですね。五感がそう思うだけであって、存在じゃない。仏教が自然は映像であると云ってる方に段々近づいている。

 不安定な素粒子のうちにも質量を持ってるものがあります。だから勿論そうですね。それから、不安定な素粒子は極めて寿命が短い。非常に速く走っているから、百億分の一秒位の寿命のものでも、生涯の間には一億個の電子を歴訪すると、そう云われてる。電子というのは安定な素粒子群の代表的なもので、これは質量を持つのです。そうすると安定な素粒子、例えば電子の側から見ますと、電子は絶えず不安定な素粒子の訪問を受けてるということになる。そうすると安定しているのは位置だけであって、内容は絶えず変わってるのかもしれない。

 それで、自然は映像だと仏教は云ってる。一番はっきりそう云ってるのは山崎弁栄上人です。この映像は第二の心の深みから映写されるのである。第二の心には時間、空間は無く、第二の心の深みには個々別々ということも無い。そう云ってる。

 そうすると、不安定な素粒子は時間も空間も無く、個々別々ということも無い、そういう境から生まれて来て、またそこへ消えて行ってるのだ。安定な素粒子と云っても、安定しているのは位置だけであって、内容は絶えず変わって行くのである。矢張り自然は映像であると、こんなふうに思えるんです。

 そんなふうですけれども、自然は実在であるか、あるいは映像に過ぎないかって云うのはこれは大変な問題であって、そこが変われば一切がまるで変わる。

 それで自分の目でみて自分の頭で考えるということをしてみた。仏教の大先達の云うことは、あの人達には凡夫では想像のつかないような智力が働いて、そして直観的に云ってるんだから、到底およびもつかない。で、わかる範囲でみたいと、そう思います。そうすると仏教の云うことを全然信じなかったらどこが一番困るかと云うと、生命現象というものが一つもわからなくなってしもうことです。

 人は生きている。だから見ようと思えば見える。これ、生命現象ですね。何故見えるのか、この問いに対して、自然科学は一言も答えることが出来ない。仏教に尋ねますと、これは第二の心に成所作智(じょうしょさち)という智力が働くからだと、こんなふうに教えてくれる。

 また、人は生きているから、立とうと思えば立てる。この時全身四百いくらの筋肉が同時に統一的に働くから立てるのであるけれども、どうしてこういうことが出来るのか。これを自然科学に尋ねますと、矢張り一言も答えられない。仏教に尋ねますと、これは第二の心に妙観察智(みょうかんざっち)という智力が働くからだと、こう答えます。

 また、西洋人は植物をこんなふうに説明する。植物には葉がある。葉には葉緑素がある。葉緑素は日光の助けを借りると、同化作用を営むことが出来る。それで植物は同化作用を営んで、空気中の炭素と水中の水分とから含水炭素を作る。それで体を作っているのである。こう云って、総て説明し尽くしたように云います。

 しかし不思議なのはその後であって、松の作った含水炭素はどこへどう使われても一滴一滴みな松になり、竹の作った含水炭素は滴々みな竹になる。何故であるか。こういうこと、自然科学は勿論答えられません。答えられないだけじゃない、その如何にも不思議であるのを、不思議とさえ感じることが出来ない。

 これは何故であるかと仏教に尋ねますと、仏教はこう答える。植物にも第二の心はある、動物にしか無いのは第一の心だけである。その第二の心に大円鏡智(だいえんきょうち)が働くからである、こう答えます。

 人本然の心というものは、(ひと)が喜んでおれば嬉しく、(ひと)が悲しんでおれば悲しい。人の世はこれあるが故にあり得るのだ。何故人の心はそんなふうなのかと尋ねますと、自然科学はただびっくりしてしもう。そんなこと不思議がるとはひとつも思っていない。

 しかしこれ、生命現象ですよ。仏教に尋ねますと、それは第二の心に平等性智(びょうどうしょうち)という智力が働くからである。智力と云いますが、そういう智力と云う時は、知ると云う字の下にさらに日という字を書く。日という字を書き加えた智力は、単に知に働くのではなくて知、情、意に働くんです。今の平等性智は情に働いたんですね。そしてなお言葉を添えて、平等性智が大宇宙を支えているのである。こんなふうなんです。

 で、東洋の宗教、第二の心というものがあって、それに四種類の智力が働くのだということを取り入れなかったら、生命現象というものは一切説明出来ない。西洋の学問、思想の一切は、生命現象をひとつも説明してはいません。ただ生命の残した痕跡をあげつらってるだけで、生命そのものについては一言も説明してない。それで東洋の宗教、即ち第二の心というものがあって、それに四種類の智力が働くのである。もっと簡潔に云えば、第二の心というものがあるのに五感ではわからない。時間、空間を超えている。だから勿論五感ではわからないが、第二の心というものがあるのだと、これを指して宗教と云うのです。これを取り入れて、自然をもう一度科学し直すべきである。そうするとやや生命現象というものがわかって来る。その後、人の世は如何にあるべきかを考えて行くべきである。こう云っている。おわかり願えたでしょう。

 生命現象をひとつも知らないで、例えば国をかくするのが良いなどと、出鱈目を云っているんです。やめなきゃいけない。何も知らないということを知るべきです。

 (男性)それによって新しい道徳とか学問、芸術とか・・・

 (岡)何よりも道徳 !

 道徳とは、今は自己中心にやるのが自主的だなどと云っている。ところが真、善、美すべて第二の心の世界のものである。その第二の心は無私です、私が無い。だから何よりも、それが道徳的である為には、それが無私でなければならない。また、人は死ぬものとして、いろいろ良いとか悪いとか云ってるでしょう。人は不死です。すっかりやり直さなきゃいけない。

 今欧米の真似をして蠢動(しゅんどう)してる。それをやめよと云ってる。何も知らないのに、みな知ってるような顔をして。

 何よりも不道徳ですよ、欧米は。欧米は真を学問と云う。美を芸術と云う。学問、芸術を文化と云う。文化が盛んになればいいんだと云う。それじゃ道徳抜きでしょう。真似はやめなきゃいけない。

 わかったですか 自分が何も知らんということ、わかったですか  それがわからん。(笑)

 生命現象がひとつもわからん。自分は見て見えている。が、何故だか知らん。立とうと思ったら立てている。何故だか知らん。それほど無知だということを認識しなきゃ。

 何も知らんのだと思うべきです。それから、大体欧米の真似をしていたら不道徳ですよ。

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