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2023.02.13up

岡潔講演録(29)


「岡潔先生と語る」 (1)- 東洋と西洋の融合 -

【3】 肯定と否定の間

 (男性)岡先生、否定と肯定の間と云うのはどんな状態ですか。

  (岡)はっきりこれは間違ってると否定出来るのは、これは理性で否定出来るのです。しかしはっきりこれはこうだということは肯定出来ません。これはなかなか出来ない。弁栄上人、その他仏教の人達の云うことを聞いて、如何にも本当だと思っても、それは信じることは出来ても、肯定することは出来ない。だから否定されないことはどんどん考えてよい訳ですね。否定だけはいけないけど。迷信なんていうのは否定出来ますから、これはいけないけれども。仏教はこう云ってるっていうふうなことを聞いたところで、それを信じるという以上は出来ない。だから信じるということも肯定と否定との間ですね。

 総てわたし達凡夫は、肯定と否定との間で行動する以外に行動の仕様がない。なんにも知らない  凡夫が知に明らかって云うのは、何も知らないということをよく知ってることでしょう。

 何も知らないって云ったって、無茶は無茶とわかります。何故かと云うと、それは理性でわかりますから。理性では否定出来る、だが肯定は出来ない。で、我々は否定は出来るが肯定は出来ないんです。それが凡夫というものです。

  おわかり願えましたでしょうか。

 (男性)わかりにくいです。(笑)

 (岡)何でも皆知ってると思ってるから。

  見ようと思えば見えますね。何故見える。見ようと思えば見えることは確かですね。見えないということはありませんね。しかしこれ、見えるというのはどういうことでしょう。見えるものはあるんでしょうか、あると思うだけなんでしょうか。

 ここに机があると思う。これは見て見えるという以上に、押すと抵抗を感じる。しかしこれも五感のうちでしょう。五感があると感じる。そうすると五感がそう感じないって云ったらこれは間違いですね。だからこれはあると感じる。だからこれは否定ではない。しかし本当にあるのか。本当にあるんじゃないと仏教は教えてるんです。

 第二の心が神である。そうすると神は居ると云うことになりますね。人は第二の心を自分と自覚したら目覚めた人と云う。目覚めた人を仏教では(ぶつ)、大菩薩と云い、神道では神と云う。

  人は眠っている間は、生きるとは肉体を持つことだと思う。だから必ず肉体を持つ。しかし目覚めれば、肉体を持たないということも出来る。坂本竜馬は明治維新前に死にましたが、日露戦争の時、皇后陛下の夢枕に立って、「日本はこの戦争に必ず勝ちますから、あまりご心配なさらないように天皇陛下に申し上げて下さい」と、そういうことを申し上げたと、こう云われてる。

 そうすると神というものはある。しかしこの神があるというふうな云い方、これ理性で否定出来ない、否定出来ないこういう例もある。それから第二の心というものもある。他にいろいろ例があがります。

 理性では否定出来ない。しかし神がいると云うことを肯定出来ないでしょう。で、神が居るとして、そうすると第二の心というのは、第二の心の中には時間も空間も無い。そうすると時間、空間を超越している。それが自分だと云うんだから、第二の心は不死です。時間を持たないが故に不死です。

 そうすると人は過去無量却来、ともかく生き変わり死に変わりしてる訳でしょう。そうするとそういう長い間に目覚めた人というのは数えきれないくらい出てる訳でしょう。だから無量の神々が居るんでしょう。そういう神々はどんなふうに働いてるかと云えば、三つの働きかけ方があるんですね。

 第一の働きかけ方は、心の中から ―― 第二の心というのは不一不二と云って、二つの第二の心は一面二つだが一面一つというふうになる。それで第二の心の奥底に深くはいりますと、総ての生物の第二の心は合わさって一つになってしまってる。つまり心の奥底深く尋ね入りますと、どこまでがその人の心であって、どこからがその人の心ではないということが云えなくなる。それで無量の神々は各人の心の非常な深みに住んでいる。そしてじかに心の中から働きかける。我々にいろんな考えが起こるのも、少なくとも素晴らしい考えが起こるのは、神々の働きだと、こんなふうに見るんですね。道元禅師はこの働きかけ方を、

 諸仏のつねにこのなかに住持(じゅうじ)たる、各各(かくかく)の方面に知覚をのこさず。群生(ぐんじょう)のとこしなへにこのなかに使用する、各各の知覚に方面あらはれず。

 群生の生は衆生という意味ですね。これが第一の働きかけ方。

 第二の働きかけ方は、人と生まれて働きかけること。

 第三の働きかけ方は、自然の風物と現われて働きかけること。道元禅師はこれを歌に詠んで、

  春は花夏ほととぎす秋は月

   冬雪冴えて(すず)しかりけり

 こう云ったとも云える。

 第一の働きかけ方と第二の働きかけ方を天つ神、第三の働きかけ方を国つ神と云うんですね。そうすると我々が(ひと)の素晴らしい行いを聞いて感銘するのも、心に素晴らしい考えが起こるのも、春夏秋冬、晴曇雨風、千変万化の自然に接して感化されるのも、みな神々が働きかけてるんだと云えますね。だから、まあ外国もそうですが、特に日本がそういうのがよくわかる。自然のこともよくわかれば、人情のこともよくわかる。それで日本について云いますと、日本の国が歴史あって以後、こんなふうな歴史を経てきて、今日のような有様にあるということは、みな神々がそうしているのだと云おうと思えば云えますね。これは否定出来ませんね。でも肯定も出来ないでしょう。もう一つ例をあげましょうか。

 これが肯定と否定の間です。ややおわかりになったでしょう。

 (男性)いや、いよいよわからなくなりました。(笑)

 (岡)あなたが肯定と思ってるものはみな肯定と否定の間なんです。他のこともそうです。自然はあると思ってるでしょう。山崎弁栄上人は、自然は映像である、この映像は第二の心の深みから映写されているのである、第二の心の中には時間も空間も無いと思ってる。そうすると、山崎弁栄上人を信じるならば、自然はあると思ってる、これを否定しなきゃなりませんね。これ、肯定出来ない、そう云われると。じゃ否定出来るかって云ったら、信じれば否定出来る。上人を信じて初めて否定出来る。凡夫は単独ではそれ否定出来ませんから。しかしそう云われたら最早肯定出来ないでしょう。で、肯定と否定の間に住んでいる。

 神々があるって云うのもそうです。日本民族はいつ頃からあるのかという話をしようと思えば出来ます。どんなふうにすればよいかと云うと、肯定と否定との間で話すればよい。つまり否定さえされなかったら、どんなことでも考えればよい。これが肯定と否定の間の他の一面です。

 肯定と否定の間の第二の面と云えば、日本という国の本当の政治をしてるのは無量の神々であると、こういう話、これ否定出来んでしょう。さりとて肯定出来るもんじゃないでしょう。そういうのも肯定と否定の間ですね。

 自然はあると思ってるでしょう。これも肯定と否定の間と云えば間ですね。しかしこの肯定は無理です。これは五感がそう思うからあると思うって云うんだから、どうも無理。理性的には肯定出来ない。さりとて(ひと)に頼るのでなければ否定も出来ない。

 で、少しはっきりして来ました。我々は肯定と否定の間に住んでるんです。

 (男性)知らないだけですか、僕ら。

 (岡)それを知らないだけ。無知なん。それを無知と云う。(笑)

 わたしはしかしその言葉をね、主として、無量の神々が日本を操ってるとか、日本民族は三十万年位前からあってこうしたものであるとか、そういうことを云いたい通りに云う時に、人は肯定と否定の間に住むのだからという台詞(せりふ)を使うんです、普通。だけどもう行住坐臥、総て肯定と否定の間にあるんです。

 肯定は出来ない。そのうちみすみす否定されるものだけ、悪いとわかってること、してはいけないでしょう。あるいは、迷信を信じたらいけないでしょう。そういうことは否定してしもうべき。だけど肯定は出来ない。

 自然はあると思うだけで実は無いのだということを、それじゃどうするかって云われたら、これは肯定は出来ない。しかし今だに否定しかねている。で、まだ肯定と否定の間までいかんわけですね。(ひと)に頼らなきゃ否定も出来ないから。自分の力で肯定出来ない。

 肯定出来るものがほとんど無い、ほとんどって全く無いんですよ。肯定出来るものが全く無いもんだから、人は「消えざるものはただ誠」っていうふうな台詞を云うんです。これだって、誠があると云うこと、否定出来ませんけど、これが誠だと肯定出来んでしょう。

 どうでもよいものと、本質的に大事なものと、肯定と否定の間に居ることをはっきり自覚しておれば、段々つまらないものを捨てて本質的な方へ向こうことが出来ます。

 (司会)皆さん、大分堅くなっていらっしゃるようですが、どうぞ膝をくずすなり、煙草を吸うなり、ご自由なポーズで聞いて頂きたいと思います。

 (男性)おかしな話になりますが、私の親類で、同じ時間に三つの怪我が起きたんです。それがみな墓参りしたたびに、同じ時刻に怪我してる、自動車事故にあったりなんかしている。それで調べておりましたら、五十年前のその日に当主のじいさんが死んでいたんです。三つ重なっている、みな同じ時間ですよ、これ。そしてみな墓参りしていて事故にあってる。三つも重なると、これ肯定出来ない、否定も出来ない。そういうこともあるのやなあと、信じなきゃしょうがないと、今思ってるんですが。

 (岡)信じない方がよろしいよ。(笑)迷信は一切いけません。

 (男性)これはやっぱり迷信でしょうか。

 (岡)迷信です。迷信と云うのは、それが嘘であると云うんじゃない。そんなことを信じるとろくなことが起こらないということ。(笑)こんなことばかりで世の中成り立ってると思ったら、全然人らしくない。迷信と云うのはそれが嘘であると云うんじゃありません。よし同し時起ったところで、そんなものそれだけのことじゃありませんか。無視し去るべき。その辺では理性使うべき。

 (男性)はい。

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