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2023.06.07up

岡潔講演録(30)


「岡潔先生と語る 」(2)- 西洋文明の限界 -

【1】 はじめに

 (岡)最初に雰囲気づくりのために少しお話しいたします。その雰囲気の中でいろいろ考えて、聞いて頂きたいと思います。

 西洋人は心というもののあることを知らないと云ってよいんです。心理学や大脳生理学が対象にしているような極く浅い心、自我というものを中心に動いてるような極く浅い心は知ってます。しかしそれ以上深い心というもののあることを知らんのです。

 東洋の大先達たちは、その心というもののあることをよく知っていて、それについていろいろ教えてくれてるんです。随分心というものについては、我々教えてもらっている訳なんですけど、明治以後西洋の云うことを聞いて、東洋自身を忘れてしまっていますから、心というもののことは忘れてしまってるんです。終戦後特にそれがはなはだしい。

 仏教は特に詳しく心について云ってるんですが、仏教は大宇宙の中心は心であると、それで自然はよく調和がとれているのだ。個々別々になっていないのは、心が中心にあって主宰しているからだ。その心の一部を分かち与えられて生物はみなそれを持っている。それが生物の主宰性であって、生物が一個の生物でありうるのは、心が根底にあって主宰しているからだ。心の最も基本的な働きは、二つの心が一つに合一することが出来ることである。人の中心は心だから、心が合一すると、その度合いに応じて人の心がわかる。また、自然の中心も心だから、それと合一すると、その程度に応じて自然というものがわかるのであって、総て本当にわかるのは、腑に落ちるというふうなはっきりしたわかり方は、心が合一することによって達せられる。心の中には時間も空間も無い、時間、空間を超越している。

 大正九年に亡くなった山崎弁栄(べんね)という上人がありますが、その人は心について一番詳しく云ってますが、その人の云うことによると、本当に実在しているものは心だけである。自然は心があるために映写されている映像に過ぎない。そう云ってるんです。

 実際、自然科学をみましても、自然科学は素粒子というものを発見した。その素粒子には安定な素粒子と不安定な素粒子とがあって、不安定な素粒子は生まれて来てまたすぐ消えて行ってしまっている。そうすると自然は存在じゃないんですね。少なくとも一部は映像と云ってよい。また、安定な素粒子、安定な素粒子の代表は電子ですが、電子には絶えず不安定な素粒子が衝突している。だから安定して見えるのは位置だけであって、内容は刹那に変わっているものかもしれない。そうも考えられる。もしそうだとすると、山崎弁栄上人が自然は映像であると云っているのと同じになるんですね。不安定な素粒子というものがあるから、今の自然科学では自然は存在でないことはわかっているが、全体が映像かどうかはわからない。そういう状態なんです。

 大体、西洋人は五感でわからないものは無いとしか思えない。これが唯物主義です。徹底した唯物主義で、この仮定のもとに調べて来た。それが自然科学等ですね。

 そうするととうとう素粒子というものに行き当たった。不安定な素粒子というものがあって、生まれて来てまたすぐ消えて行ってしまっている。無から(ゆう)が生じるということは考えられる。そうすると五感でわからないものは無いという仮定は撤回しなければならない。それで西洋の学問は、一番始めからもう一度調べ直さなければならないところへ来てるんです。

 ところで、西洋は五感でわからないものは無いという仮定のもとにいろいろ調べて来たんですが、そうしても生命現象については、ついに少しもわからなかった。

 人は生きている。だからいろんな生命現象がある。例えば見ようと思えば見える。何故であるか。これに対して医学は一言も答えられない。

 また、立とうと思えば立てる。この時、全身四百いくつの筋肉が同時に統一的に働くから立てるのであるが、何故そういうことが出来るのか。これに対しても医学は一言も答えることが出来ない。

 かように、生命現象については全然わからないんですね。それが物質現象については不安定な素粒子の存在という点において非常な破綻を示しているし、生命現象については全くわからない。これが西洋の学問の現状なんです。

 心は時間も空間も無いから、勿論五感ではわからない。心というものの存在を西洋人は知らないんですね。認めようとしないんじゃない、知らないんです。

 ところで、人が一個の人であるのは、知、情、意がバラバラになってしまわないで一個の統一を保ってるのは、心の働きです。また、本当にわかるというのも心の働きです。総て、心理学や大脳生理学が対象にしている自我中心の心がいろいろな働きを持つのは、その奥にもっと深い心があって、それが働いているからいろんな知情意という働きが出てくるので、浅い心だけではそういう働きが無いんですね。

 ところが、日本は終戦後、特にアメリカの真似をした為に、深い心というもののあることを全く忘れてしまってる。それで非常に、みる人がみれば、憂うべき日本の現状が出てきてる。特に教育の面においてそれがはなはだしい。

 心がよく働いていない。大学生なんかに、心がよく働いていないということは、作文を書かせてみれば直ぐにわかる。総て人の中心は心ですが、教育もまたこの心がよく働くように育てなければいけない。が、アメリカ人はそれを知らんから、アメリカの真似をした教育はそれをやっていない。その為いま見るような大学生が出来てるんです。

 浅い心を第一の心、深い心を第二の心と云うことにしますと、一切のものは –– この、近頃きれいな川は少ないですが、それでも山奥へ行けば小川はきれいにせせらいでるでしょう。このきれいな小川のせせらぎに石が漬かっていると、それに陽が当っていると、そうします。そうすると、水の中の石は非常にきれいに見える。ところが取り出して乾かしてみると、極くつまらない石です。人生のこと一切は、この小川のせせらぎに漬かってる石のようなもの。その石が第一の心の内容、その小川のせせらぎが第二の心の働き。そんなふうなんです。そういうものだということを今の日本人は全く知らない。

 大体そんなふうです。

 (司会)それでは先生にお話しして頂きまして雰囲気の出来ましたところで、これから質問形式でいろいろお話しして頂きたいと思います。ただ今の先生のお話について、あるいは今日ここへおいでになるに当たって用意してこられたご質問等、どんなことでもお聞き頂きたいと思います。どなたからでも質問して頂きたいと思います。

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