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2023.06.07up

岡潔講演録(30)


「岡潔先生と語る 」(2)- 西洋文明の限界 -

【2】 無差別智とは

 (男性)先生の本の中に無差別智の働きということをよくお書き下さっておりますが、実際どういうものなのか、私例を申し上げますので、違っていたら違っていると教えて頂きたい。

 (岡)はい、はい。

 (男性)私の家に猫が居ついておりまして、捨て猫だったんですが、猫のことですのでテーブルの上にのぼったりしますし、魚等も食われますので、困りまして捨てに行ったんです。一キロ程離れた所に捨てたんですが、じきに帰って来ました。それで私、今度は三キロばかり離れた所へ捨てに行きました。それも日暮れに、箱に入れてわからないようにして捨てに行きました。これで帰らんだろうと安心しておりましたら、また帰って来ました。

 今度はよもや帰らんだろうと思っていたのがまた帰って来ました。その頃先生の、オットセイが北から南の方へ行って、また帰ってくるという話を読んでおりまして、ははあ、これが無差別智の働きと云うもんかいなあと・・・

 (岡)ええ、そうでしょうな。大円鏡智でしょうな。

 (男性)それともう一つ、それとよく似たことですが、私の家に母屋から離れにいく縁側があるんですが、赤ん坊が居るんですが、孫ですが。落ちはしないかと心配していたんですが、今満三才になるんですが、一ぺんも落ちんのです。私手摺りをこしらえてやろうと思っていたんですが、今ではもう手摺りは要らないようになりました。幅はと云うと三尺足らずなんです。ごそごそ這う時分から危ないなあと思っていたんですが、今考えてみると、一回も落ちていない。不思議だなあと思うんですが、こういうところにも無差別智が意識しないのに働いているんでしょうね。

 (岡)働いてるんでしょうな、いろんな無差別智が。

 (男性)そういう無差別智が猫の場合はちゃんと猫の身を守っているし、また同様に赤ん坊の場合は赤ん坊を守っている。働かそうとしないのに働いている、意識せずに働いている力というものは恐ろしいものだなあと・・・

 (岡)ええ、無差別智は自我を働かせなかったらよく働く。だから下等な動物にはよく働くんです。自我を働かすと働かなくなる。

 (男性)その時に何かが落ちていたりして拾おうとして自我が出てくると、コロンと落ちるんだろうなあと。ところが素直に縁を行ったり来たりしてるだけだと、怪我もなく落ちもしないと。まあ、そこらあたりが無差別智の境地なんだろうかと、私ながらに思っておりましたんです。

 もう一つ、私いつか先生のお供をして東京へ行った時、雨が降っておりまして、雨が降って困りますなあと云ったら、えらいこと先生にしかられたんです。先生もうお忘れですやろか。

 (岡)はあ。

 (男性)私その時きおつけして聞いておりましたが、先生のお言葉を今思い出してみますと、晴曇雨風、電光雷鳴、四季おりおりの変化は、神々がお与え下さるものであると、そう云ってしかられたんです。

 それで、まあ、雨が降っている。そうすると、私が知りたいなあと、知りたいと云うよりも入りたいなあと思うのは、先生のお言葉の中で、お前達の見ているのは大自然の上っ面ではないかと。そう云われてみると、私もやっぱり奥があるとなると大自然の奥が見たい、奥を見たくてたまらない。ところがどういうようにしていったら大自然の奥が見られるのか、そういう方法があるのかどうか。例えば雨ですと、雨が降ってると云ったら雨が降ってるだけですけれども、それで生物がみな生きるんだから、これはひとつの恵みというようにも感じられるし。そういうように見ていくということが、大自然の奥行きを見ていくというような方法につながっていくのかどうかと、こういうことでございます。

 (岡)まあ、いろんなこと云われてますが、総て自我が邪魔するんです。それで無心になればいいんですね。雨は生物にとって恵みだからっていうふうな見方は、すでに理屈が入っていて、非常にいいとは云いにくいんです。仏教ではよくそんなふうに教えるんですけど、そうすると宗教になりますね。

 大宇宙の根底は心であって、仏教の一宗に光明主義というのがありますが、光明主義ではその心を如来と呼んでるんです。他の仏教ではそんなにはっきりは云ってませんが、ともかくはっきり指し示してないにしても、大宇宙の根底は心で、その心は人格を持ってる。その人格を持ってるという面に重点を置いてこれを見ると宗教になるんですね。人格を持ってるという面に重点を置かなければ、哲学になるんでしょうか、東洋哲学ですね。

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