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2023.06.07up

岡潔講演録(30)


「岡潔先生と語る 」(2)- 西洋文明の限界 -

【3】 西田哲学と第二の心

 (男性)岡先生の云われる「こころ」を西田幾多郎先生の云われる「純粋経験」と取ってもよいでしょうか。

 (岡)いやあ、そりゃいけません。いけませんよ。

 (男性)そしたら岡先生の、西田先生の純粋経験界に対する感想を聞かせて下さい。

 (岡)わたし西田さんのもの、何も読んでません。だけど、それはそんなこと取ったらいけない。素粒子の生まれてくる古里、そう取らなきゃ。時間も空間もみな心が産み出すんです。だから心が無ければ、経験も何もありえない訳です。

 (男性)西田先生の「善の研究」の中に・・・

 (岡)西田先生、東洋の大先達が心についてどういうことを教えてくれてるかということを、ご存知ないんです。西洋のものやったから。まるで知らんのでしょう。総て西洋の学問、思想は時間、空間の枠の中にとじ込められてしまってる。心の内容を無と云う。で、無と云えば時間も空間も、自他の別も無いんです。そういう無ですね。そういう無について、西洋人は一度も考えたことがない。

 (男性)「個人あって経験あるのでなく、経験あって個人あるのである・・・」

 (岡)そんなことありませんよ、アハハ。個人あって経験あるんです。経験あって個人あるのであるなどと云うのは、第一の心しか知らないと云うのです。本当のわかり方は、意識を通さない。だからわかってるということがわからない。ところが第一の心の働きは必ず意識を通す。大体、意識するという心の部分では、心のうちでも一番浅いところがするんです。仏教は心を層に分かって云ってますが、一番深いところを第九識、それから第八識、第七識、第六識と浅くなるんですが、意識はその第六識がするのだと教えてる。

 経験あっての個人だなどと云うのは意識の世界のことですからね。非常に浅い。本当にわかっても、本当にわかってるということを意識することは出来ん。だけどどこやら本当にわかってる。本当にわからなかったら、意識を通して見れば同じであっても、どこか何か本物じゃない。腑に落ちない。それが心の働きです。

 西洋人は第一の心の世界しか知らないから、すぐに経験あっての自分だっていうようなことを云う。その自分というのも小さな自分、自我というものです。本当の自分というのは、そんなものじゃありません。第二の心が真の自分である。だから時間も空間も無いから、いたる時いたる所に心というものは遍満してるんです。それが自分です。経験ではその自分というものの存在はわからない。全然それは西洋系統の考え方です。

 (男性)僕の云い方が悪いのかもしれませんけど、なんか・・・

 (岡)いえ、あなたの云い方が西洋流なんです。もうそういうふうな形式が出てくれば、それは必ず第一の心の世界なんです。西洋ではギリシャ以来そんなやり方ばかりしてる。大体第二の心の世界のことは、言葉では云い表せない。ただ体得するだけ。

 (男性)僕の本の読み方が悪いのかどうかわかりませんけど、その岡先生の云われる通りのことを・・・

 (岡)いや、この頃の本が悪いんです西洋かぶれした者ばかりです大学の先生なんか、東洋のことをちっとも知らない。実に浅薄なものです。ああいうのは一切時間、空間というものあってのことです。時間、空間というものは、何度も云いますが、心がつくり出してるん。本来あるものじゃない。

 (男性)僕ばかり時間をとって悪いんですが、岡先生の云われる通りのことを西田先生の「善の研究」の中に書いてあるんです。純粋経験界というものは時間、空間以上のものであるというふうなことを一番最初のところに書いて進んでいっているんで、それで岡先生の云われることとまるっきり一緒だなあと思って読んでいったんです。

 (岡)そうですか。わたし西田先生のものはひとつも読んでない。西田先生が「言葉で云い表すと、(かす)のようなものである」と云われたと聞いて、それ以後西田先生を尊敬してるんですが、それまでは全然尊敬していなかった。西洋哲学の形式で善を述べよう ― 真善美の善です ― 善について述べようなどと云うのは、まるで木によって魚を求めるようなものである、そう思ってた。何も読んでません。

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