「岡潔先生と語る 」(3)- 西洋の真似はやめよ -
【2】 はじめに(2)二つの心
そうすると一体何がどういうことになるのかと云うことですが、こんなふうに全く人類は今無知なんです。それで、これまで顧みなかったものをよく見てみなければならない。
東洋には仏教というものがある。その云っていることを一応聞いてみましょう。仏教は余計なことばかり雄弁に云って、根本原理についてあまり云わないから、非常に聞きにくいんだけど、よく聞いてみれば矢張り随分驚くべきことを云っている。
これはそれをわたしの言葉で云うんですが、人には心が二つある。本当は二つある訳じゃありません。心の浅いところと深いところとで全然趣きが変わっていますから、その浅いところを第一の心、深いところを第二の心と、こう分けると話がわかりやすい。そうすると人には心が二つある。
西洋人の知っている心は第一の心だけです。この心は感情、意欲、理性の主人公であって、自我というものを主体にしてでなければ働かない。この心は大脳前頭葉に宿っている。この心のわかり方は必ず意識を通す。西洋人はこの心のあることしか知らないのですが、人には第二の心がある。この心は無私であって
― 私が無い ― 私というものを入れなくても働くし、また入れようと思っても入れようがない。この心は大脳頭頂葉に宿っている。この心のわかり方は意識を通さない。意識を通さないわかり方というようなものが有るかということですが、それをはっきり見るには赤ん坊を見ればよろしい。赤ん坊はわかっているが意識はしていない。とりわけ赤ん坊は幸福である。しかし幸福であるということを意識してはいない。これが第二の心のわかり方です。
赤ん坊には第二の心は始めから有って、よく働くんですね。あまり大人に比べて発育していないのは第一の心だけ。だから赤ん坊をみれば第二の心の世界というものがよくわかる。意識を通さないわかり方というのは赤ん坊のわかり方で、わたし達もそのわかり方が基礎になって、それ有るが為に意識を通すわかり方が有り得るんですけど、それを知らない。
で、この第二の心があるということを仏教は云うんですね。これが本当の自分だと云うので「真我」と呼んでいる。これに対して、この肉体とそれに宿る心、自我を主体にした心、これを自分と人は思いがちだが、東洋人でもそう思いがちですが、西洋人はそうとしか思えない。東洋人でもそう思いがちである。これを「小我」と呼んでますが、仏教は小我が自分であるというのは迷いであるから、速やかにこの迷いを脱却して真我を自分と悟らなければいけない、そう云ってる。
仏教はこの第二の心の中には時間も空間も無いと云っています。また、大正九年に亡くなった山崎弁栄という上人は、この人が一番はっきりしたことを云っていますが、自然は存在ではない、映像である。これは第二の心の深みから映出されているのである。二つの第二の心の関係は一面一つ、一面二つ。これを不一不二と云うんですが、そんなふうだから、総ての第二の心は合一して一つになってしまっている。この合一した第二の心から自然は絶えず映出されているのである。こう云ってます。
実際、不安定な素粒子というものの存在をみますと、自然は存在ではありません。安定な素粒子もありますから、自然は刹那生滅、即ち映像だということまでは科学ではわかりませんが、既にわかっていることは、自然はじっと存在しているのだということが誤りである、ということはわかります。これはわたし達みなそう思ってますから、これは誤り。全体が映像であるということが科学的に証明されてると、非常に大勢の人を納得さすのがたやすいんですが。
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