「岡潔先生と語る 」(3)- 西洋の真似はやめよ -
【3】 はじめに(3)神仏は居る
で、総ての生物の本体は第二の心です。ところで、この第二の心は肉体を持つこともあれば持たないこともある。肉体を持たない第二の心、そういう生物がある。これを神々と云ったり、どちら云っても同じですから、仏達と云ったりするんですね。神、仏は本当にある。仏を見るには肉眼では見えない。完全には仏眼という目、不完全にも法眼という目で見なければ見えない。弁栄上人、それから法然上人、釈尊、みんな仏眼で仏を見て、それからのち仏は居ると説いているので、仏は本当に居るんです。それだったら神も本当に居るということになりますが、神についてはこういう話がある。日露戦争の時に坂本竜馬が皇后陛下の夢枕に立って、「この戦争で日本は必ず勝ちますから、天皇陛下にあまりご心配なさらないように申し上げて下さい」と、そう申し上げたという話がある。これが神です。
で、五感でわからないものは無いというのが唯物主義ですね。我々は今、西洋の唯物主義を盲目的に信じて、大抵の人は神々や仏達は居ないと思っていますが、本当は神々も仏達も居るのです。
弁栄上人はよく観音菩薩の絵をおかきになりました。ところがある時、広島の寺におられた時、逆に町の絵かきが観音菩薩の絵を寺へ売りに行った。それで弁栄上人が出て、その絵をご覧になって、「この絵は全然観音菩薩に似ていない、第一目が全く違う」、こう云われた。弁栄上人は観音菩薩を実際に見て、それを写しておられたのであって、想像でおかきになったのではない。
かように神、仏は居るのです。居ないというのが間違い。仏眼なんかが開いてない者が、自分の五感ではわからんから居ないと云ってる。稀にそういう目の開いている人がある。そういう人の云うことを信じなきゃならない。
かように日本で非常に大衆に親しまれている観音様は居るんです。じゃ、その観音様は何をしているのかと、こういうことになる。これは仏教の云うことをうっかり素呑みには出来ない。何をしているのかよくわからない。おられることは確かですが、それについては道元禅師はこう云ってる。
諸仏のつねにこの中に住持たる、各々の方面に知覚をのこさず、群生のとこしなへにこのなかに使用する、各々の知覚に方面あらはれず。(「正法眼蔵」弁道話)
どういうことかと云うと、人の中心は第二の心である。この心は段々深くはいって行くと、どこまでが個人の心であって、どこからが共通の心であると、そういう境い目を持たない。だから個人の中心はずっと深くはいれば、総ての人の心と一致している。単に人の心と一致しているだけではない、総ての生物の心と合一してしまっている。その心の一番深奥に仏達が住んでいる。この中にっちゅうのは第二の心の中に。そして心の中を通して人に働きかける。ほかのこともなさるでしょうが、これが一番主な仕事です。そう思って人を見れば、人類は今から五十億年前に単細胞生物であった。それがどうにか今のところまで向上して来た。何故こういうことが起こったかと云うと、神々、仏達が働き続けたから。これこそ神、仏が居る証拠である。そういうことが云える。
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