「岡潔先生と語る 」(3)- 西洋の真似はやめよ -
【10】 第二の心をみる(その2)
(男性)先生、第一の心と第二の心の関係ですけれども、第一の心がスイッチであって、そのスイッチを入れると電気がつくというのは第二の心の働きだと・・・
(岡)ええ、第二の心の働き。
(男性)それを具体的に、例えば文章を書く時に、第一の心と第二の心の働きの関係みたいなものは・・・
(岡)本質的には第二の心が文章を創造してるんです。それを機械的な文字に表す役割を第一の心がするだけです。本当は第二の心が書くんです。第二の心でなければ創造するという働きは出ません。
(男性)形に表すというのは第一の心がする訳ですね。
(岡)あらかじめ人がみな寄って約束しておいたような言葉とか文字とか、そんなもので表すという、そういう事務的な働きを第一の心がするんです。事務を取り扱ってるんですね、あるいは機械的な部分を受け持ってると云いますか。だからスイッチのようなものです。電灯がつく為には機械的な働きでは駄目で、本当に光が出なきゃ駄目なん。これは第二の心にしかその働きは無いんです。
(男性)作品の深さというのは、やっぱり第二の心から現われるんですか。
(岡)ええ。第一の心が働き得るのは第二の心が働いてくれてるからです。それを第一の心の働きだと、自分がしてるのだと、こう思うんですね。自分がしてると思うのが悪いんです。第二の心の中には、真我というのは、自分というものが無いということです。そこのところは夢をみればよくわかる。夢というものを観察しますと、時々自分というものも出て来ますが、多くは自分というものは出て来ません。まるでスポーツの試合を観戦してるようなのが夢の筋書きです。
(男性)と云うことはですね、感情というのとはまた違う訳ですか。
(岡)情の浅いところを感情と云ってますね。西洋人が感情と云ってるのは極く浅い情で、自我中心に動く情です。喜怒哀楽と云われてるのが感情です。感情というものは自我を主人公にしなければ無いものです。幸福というのは、感情が幸福なんじゃありません。からだが健康な時、なんとなく気持がよい。それと同じものです。
(男性)夢の中では第一の心が比較的少ないということですが、自分というものは確かに少ないと思いますが、相手というもの、夢の中に登場する人というものがいろいろな行動をとりますが、これはどういうものによって動かされているのでしょうか。
(岡)ご質問の意味がわかりませんが。
(男性)夢の中では第一の心、自分というものは少ないと、先生云われましたね。
(岡)ええ。
(男性)その中で、夢の中で・・・
(岡)自分というものが無くても、人生というものが有り得るということは、夢を見ればわかるでしょう。それが真我だと云ってるんです。
(男性)その中で、いろんな人がいろんな動き方をするっていうのは、どんなものによって・・・
(岡)どんなものによってって、それが第二の心!第二の心があるというのは、情緒があるということです。情緒という流れが、せせらぎが、人生ですね。自分などというものは要らない。松は常に松であって、竹は常に竹でしょう。しかし松も竹も自我を働かせてはいない。自我なんか要らない。
(男性)本当の個性っていうのは第二の心にあるんですね。
(岡)第二の心です。過去無量却来の歩いてきた道のエキス、それが個性です。一人一人みな違うわけです。第二の心を見ようと思えば、それを第一の心で説明しようとしてはいけない。第一の心で見ようとする、その傾向を捨て去らなきゃいけない。全く始めから赤ん坊にかえって見直さなきゃいけない。
|