「岡潔先生と語る 」(3)- 西洋の真似はやめよ -
【9】 第二の心に生かされて
(男性)ある若い女性の方から、この木は何かと尋ねられまして、桑の木だと、こう答えました、桑の木でしたから。その時に、ああ桑が有っても蚕が無ければご婦人の好きな絹糸は出来ない、蚕があっても桑がなければ矢張り絹糸は出来ない、ああうまくつくってあるなあ、うまく出来ているなあと、まあ私はそう思いました。
(岡)はあー。
(男性)それから帰って風呂に入っておりました。湯加減がとても良い。だからああうまくつくってあるなあと思いました。また私が生きているのも、これは空気がつくってある。空気があるから私が生きていると、ああうまくつくられているなあと・・・
(岡)空気が有るから生きているっていうことだけじゃありませんよ。第一の心にわかるのは、小便したくなると、それで便所へ行く、小便が出る。その時快感を覚える。それくらいであって、それから前は第一の心とは没交渉です。だけど人が生きているということの極く末端だけが第一の心にわかるんですね。小便したくなる前に、そこへ持って行くまで、からだは働き続けてる。これは第二の心がやってるんだけど、第一の心は全然知らない。神々、仏達はこういうところにも働き続けてるでしょう。
人は単に心が向上しただけではありません。むしろ単細胞から向上したのは、心はそれほどではないが、からだが向上したんである、こういうことになります。神々が働き続けてるからでしょう。そしてそのほんの末端、小便したくなった、その辺からわかる。そして便所へ行くと小便が出る。これもしたくなったら出るというのは当然だなどとは思えません。年をとると、よく小便したくなるだけで小便が出ないことがある。大変不幸を感じる!手術をして小便が出るようになった人が、小便が出た時、まるで天下を取ったように嬉しかった。(笑)これが人というもの。ほんの少ししかわからんのです!
だから単細胞からここまで、まるで赤ん坊が乳母車に乗せてもらって、母親に押してもらってここまで来たような来方で向上したんですね。母親が神々です。その神々の合一神というのもある。
大体、西洋の唯物主義は自然を死んだものとしか見ない。我々はもっと生きた自然を見なきゃいけない。自分も生きた自然の一員として見てご覧なさい。自分でやっているのは、ほんのわずかです!自分が生きてるんだなどと云えた義理ではない。寝た間も生きてるでしょう。第一の心は寝たら何もしません。その間もちゃんと生きてるでしょう。生かしてもらっているのであって、自分の力で生きてるんではないんです。もっと自然を、生きた自然として、自分の目で見なきゃいけない。西洋人は決してそうは思えない人種です。その真似をしてはいけない。
西洋の学問は五感でわからないものは無いという仮定の上に立っている。そういうことをすれば、第二の心があるということはわからない。ところが、生命は第二の心あるが故にある。第二の心が生命だと云ってよろしい。だから西洋の知識では、生命現象は一切わからない。
人は見ようと思えば見える。何故であるか。医学はこれに対して一言も答えることが出来ない。人は立とうと思えば立てる。この時全身四百いくらの筋肉が同時に統一的に働くから立てるんだけれど、何故そういうことが出来るのか。これに対しても、医学は一言も答えることが出来ない。
仏教に聞くと、見えるのは第二の心に成所作智という智力が働くからであって、立てるのは第二の心に妙観察智という智力が働くからである。こんなふうに説明してるんです。
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