(※解説8)
「アメリカは調べやすいものだから側頭葉ばかりを調べたのではなかろうか」という風に岡はいっていますが、そこで問題になるのが「右脳左脳理論」というものです。
時実や岡が前頭葉中心の大脳生理を1960年台に強調していたにも拘らず、その後いつのまにか「右脳左脳理論」が隆盛をきわめ主流となり今日に及んでいるのです。
「右脳左脳理論」といいますと、大脳を正面から縦に割って右が「感性」の右脳であり、左が「理性」の左脳であるというもっともらしい理論です。
これは理性と感性の関係から、単純に人というものを説明するのに都合がよいのですが、本当にこれで人というものを説明しきれるものでしょうか。人には感性と理性しか働いてないのでしょうか。どうも私はそこに1つの「トリック」を感じるのです。
といいますのも、大脳新皮質には前頭葉、頭頂葉、後頭葉、側頭葉とあるのですが、その側頭葉だけは左右2つあるのでして、その左右の側頭葉をアメリカの脳科学者が「右脳左脳」に擦りかえてしまった嫌いがあるのです。
岡も当時、既に指摘していることですが、基本的にいって左右の側頭葉は共に「知覚、記憶、判断」を司っているのですが、ただ1つだけ「言語中枢」だけは左側頭葉にしかないのでして、その「あるなし」が左右の側頭葉の象徴的な違いとなっているのです。
それを側頭葉の機能の世界観しか頭にないアメリカの脳科学者の多くが誇大解釈した結果、「右脳左脳理論」が生まれてしまった。そしてそれを日本の専門家のみならず、一般の人々もそれに盲目的に追随し、「右脳左脳理論」の暴走が長くつづいたのではないでしょうか。
ではなぜ、右が「感性」で左が「理性」かという問題になるのですが、これはあくまでも私の推測ですが、左右の側頭葉の共通の性格を一言でいえば、「感覚」でして、そこから「感性」という要素が生まれてくるのですが、左側頭葉だけに「言語中枢」があるということは、特に西洋では言語は「理性」と直結するがために、左のみが「理性脳」といわれ始めたのではないかと私は想像します。因みに、日本では言語というと和歌や俳句という情緒と直結するのです。
こういう風に、左右の側頭葉のほんの少しの機能の違いが誇大解釈され、「右脳左脳理論」という「神話」が生まれた訳でして、科学の先端をいく「 脳科学」という学問でさえ、わかってみれば結構いい加減なものではないでしょうか。
岡もいっていますように、西洋の科学というものは1つの法則がわかれば、強引にその法則を多くのものに当てはめようとする傾向がある。従って、この学問の世界といえども、西洋の「力(意志)の思想」を連想せざるを得ないのです。
それに対して日本の科学者は概ね、物事を謙虚に在りのままに見る傾向があり、やはりここでも科学の世界に「日本のこころ」の導入が待たれるのです。
つまり、日本はこれから更に西洋の前頭葉の使い方を学ばなければならないし、逆に西洋は謙虚で誠実な「日本のこころ」をこれから学んでいかなければならないのです。これが東西文明の真の融合です。
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