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2013.7.27up

岡潔講演録(9)


「岡の大脳生理」

【9】人の座―前頭葉

真我への目覚め 1967年12月

 日本の産業界は、最近、非常な躍進を遂げ、今や、工業生産力世界第3位といわれます。アメリカ、ソビエト、日本と実際大したものですが、しかし物を作っただけでは、国家の経済的繁栄はもたらされない。売りさばく方も、うまくやらなくてはならないだろうが、そこがどうなのか、非常に危うんでいます。で、近頃、実業界の内情にとても通じている人に会ったので、様子を聞いてみたところ、果たして非常に悪い。

 一口に言って、どんなふうか。例外はあるが、一般に、大会社になればなる程、その経営者例えば、社長さんは、自分はそうしてはいけないとわかるのだけど、それをしないではおれないのだと、こう言っているというのです。

 実際、その言葉通りだとして、これはどういうことなのか、大脳生理学に聞いてみます。大脳生理学のいうところによりますと、哺乳類には、本能とか、それに伴う感情とかが時を誤り、度を過ごさないための自動調節装置というのがついている。

 しかし、人にはそれが取り払われてしまっている。その代わり、人には大脳前頭葉というものがある。動物で大脳前頭葉を持っているのは、人以外に猿があるが、猿のは、ごく発生当時で非常に小さく言うに足りない。

 ちゃんとした大脳前頭葉をもっているのは人だけで、人は自動調節装置の代りに、この大脳前頭葉を使って、いけないものはいけないと知って抑止して、やらないようにする。人にはこの大脳前頭葉の抑止力があるのです。但し、自動調節装置は自ら働くが、抑止力は働かそうとしなければ働かない。人がこの抑止力を自主的に使わなかったら、人としての品位を維持することができない。のみならず動物よりはるかに下等なものになってしまう。

 これが、医学の定説であって、これが定説になったのは前世紀のこと、以来、絶えず定説なんですが、ところが、デューイはこの定説を知らない。それで、快、不快によって判断せよというようなことを言っている。そして教育はその通りにやっている。

 しかし、考えてみて下さい。快、不快によって判断するというのでは、一体どこに人の人たるところがありましょうか。大脳前頭葉の抑止力もなしで、これは獣類のすること、人のすべきことでは決してありません。

(※解説10)

 先ず前頭葉についてですが、今まで隆盛をきわめてきた右脳左脳理論にとってかわって、脳科学の分野に前頭葉重視の方向性が生まれてきたことは大変うれしいことです。岡の大脳生理と接点が出てきた訳で、今まで「とりつく島」もなかった脳科学の世界に、岡の理論が受け入れられやすくなった訳です。

 たとえば、先にいいました茂木健一郎さんなんかは「前頭葉には編集能力がある」いっていますし、東北大学の川島隆太さんなんかはここで岡が強調する「前頭葉には抑止力がある」とはっきり言い出していまして、この「自己抑止」の能力が社会の高い道徳性や安定性につながっていく訳です。

(※解説11)

 さて次は「産業界の内情」についてですが、私が漏れ聞いてきた戦後の日本の産業界、実業界の内情の本質を、岡はここで美事に指摘していると思います。岡は希代の「世間知らず」で通っていたのですが、その眼光は当時の社会の本質を正確に捕えていたのです。

 しかも、大脳生理学的に理路整然と説明しているのですから驚かされます。今、茂木さんや川島さんが読めば、手を打って喜ぶのではないでしょうか。

 さて、もう一度「大脳前頭葉の抑止力」についてですが、この「抑止力の欠如」が今の社会の最大の不安定材料となっているのではないでしょうか。「わかっちゃいるけど、やめられない」という事件や事故が実に多いと思うのです。

 戦後アメリカの影響を受けて側頭葉ばかり教育してきたため、側頭葉から出る衝動的判断や行為、そして大脳古皮質からくる欲情を、前頭葉の抑止力で止められないのです。

 

 「便利、快適、損得」などという「快、不快」を追求するあまり、我慢や忍耐や謙虚さを古臭いものとして軽視してきたためです。道徳で大事なのは「どんな良いことをするか」ではなく、人に迷惑をかけない「何をしないか」であると岡はいうのです。

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