「岡の大脳生理」
【10】教育の原理
葦牙よ萠えあがれ 1968年12月
或る時私は、1つの非常に重要な、インスピレーション型の数学上の発見をした。それで私は、その発見が四隣にどういう影響を及ぼすかが見たくて、それを次から次へと調べて行った。発見をしたのは秋風が吹き始めた頃であったが、その発見を論文に書き始めた時はもう蛙の声がしきりであった。9ヵ月程証明してみないで捨てておいたのである。
この例が、創造が前頭葉で行われるものでないことを、最もよく示している。数学上のインスピレーション型発見は頭頂葉に実るのである。これが実ると、それを疑わないこと、妊娠した女性と同じである。
論文に書く時は、その頭頂葉に実った創造の影を順々に前頭葉に映して、それを紙に書き写して行くのであるが、そうして論文が出来てしまうと、後は3日もすれば跡方もなく忘れてしまう。これも女性が分娩するのと同じである。
こんなふうだから、創造は前頭葉で行われると、欧米の大脳生理学者が言っているのはでたらめである。真の創造はかように頭頂葉で行われる。他の2つ、善美について調べてみよう。
善行の素(もと)がもし前頭葉に実るものとすれば、前頭葉が命令して運動領(頭頂葉と前頭葉との中間)が行為することになるから、自分が善行を行ったとなる。
禅ではこの時、エッセンシャルなのは善行が行われたということだけであって、「自分が行った」などというのは悪質のトリビアルであると見て、かような善行は染汚(せんな)された善行であって、かようなものは真の善行とは言えないと言っている。善という創造も頭頂葉に実るのである。
美はどうであろう。日本の三代古典は古事記、万葉、芭蕉である。これらは何れも文学であるが、そこには大小遠近彼此の別はない。大小遠近彼此は前頭葉である。
だから、美の創造もまた、頭頂葉に実るのである。念のために画について調べてみよう。
東洋の画は純粋情操の目で見て描いている。これに対して西洋の画は感情の目で見て描いている。同じではないのである。そのよい証拠は、西洋の画では女性の裸体画が最高の美とされているが、東洋の真面目な画には女性の裸体画は一枚もないことである。美の意味が違うのである。
東洋の美とは悠久な美しさ(芥川の言葉)である。これが本当の美である。美をかく解するならば、画においても、美は頭頂葉に実るのである。
西洋のように言うと、遂にはピカソの画もまた、美だということになってしまう。しかしこれは明らかに無明(生きようとする盲目的意志)を描いたものである。
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