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2013.7.27up

岡潔講演録(7)


「岡の大脳生理」

【10】教育の原理

日本民族の危機 1968年12月

 或る時私は、1つの非常に重要な、インスピレーション型の数学上の発見をした。それで私は、その発見が四隣にどういう影響を及ぼすかが見たくて、それを次から次へと調べて行った。発見をしたのは秋風が吹き始めた頃であったが、その発見を論文に書き始めた時はもう蛙の声がしきりであった。9ヵ月程証明してみないで捨てておいたのである。

 この例が、創造が前頭葉で行われるものでないことを、最もよく示している。数学上のインスピレーション型発見は頭頂葉に実るのである。これが実ると、それを疑わないこと、妊娠した女性と同じである。

 論文に書く時は、その頭頂葉に実った創造の影を順々に前頭葉に映して、それを紙に書き写して行くのであるが、そうして論文が出来てしまうと、後は3日もすれば跡方もなく忘れてしまう。これも女性が分娩するのと同じである。

 こんなふうだから、創造は前頭葉で行われると、欧米の大脳生理学者が言っているのはでたらめである。真の創造はかように頭頂葉で行われる。他の2つ、善美について調べてみよう。

 善行の素(もと)がもし前頭葉に実るものとすれば、前頭葉が命令して運動領(頭頂葉と前頭葉との中間)が行為することになるから、自分が善行を行ったとなる。

 禅ではこの時、エッセンシャルなのは善行が行われたということだけであって、「自分が行った」などというのは悪質のトリビアルであると見て、かような善行は染汚(せんな)された善行であって、かようなものは真の善行とは言えないと言っている。善という創造も頭頂葉に実るのである。

 美はどうであろう。日本の三代古典は古事記、万葉、芭蕉である。これらは何れも文学であるが、そこには大小遠近彼此の別はない。大小遠近彼此は前頭葉である。

 だから、美の創造もまた、頭頂葉に実るのである。念のために画について調べてみよう。

 東洋の画は純粋情操の目で見て描いている。これに対して西洋の画は感情の目で見て描いている。同じではないのである。そのよい証拠は、西洋の画では女性の裸体画が最高の美とされているが、東洋の真面目な画には女性の裸体画は一枚もないことである。美の意味が違うのである。

 東洋の美とは悠久な美しさ(芥川の言葉)である。これが本当の美である。美をかく解するならば、画においても、美は頭頂葉に実るのである。

 西洋のように言うと、遂にはピカソの画もまた、美だということになってしまう。しかしこれは明らかに無明(生きようとする盲目的意志)を描いたものである。

(※解説12)

 ここが岡の大脳生理における1つの大きな転換点となるところです。これまでは主に時実の大脳生理をベースにして大脳を探ってきたのですが、岡の境地と心の世界の解明が進むにつれて、当時の脳科学の学説などあまり信用しなくなるのです。

 当時の大脳生理では前頭葉に「創造」が働くといわれていたのですが、岡は自らの創造のメカニズムを調べることによって、「創造」は前頭葉ではなく頭頂葉で行われることを発見するのです。1968年に出版された岡潔著「日本民族」の中の「来し方行く末」にその辺の消息を次のように記してあります。

 「ところで大脳生理学は創造は前頭葉が司るといっている。私は実に馬鹿で、これまでそれを盲信してそう言ってきた。日本の外の人達のインフェリオティ・コンプレックス(劣等感)や学問恐怖症のことは、わかって見ればあまり言えないのである。」

 そして、創造ばかりではなく、時実の大脳生理では前頭葉には「感情、意欲、創造」が働くとなっていたのですが、岡はそれが第1の心(自我)の知情意であることを突き止め、実は第2の心(無私の心)の知情意の働きの結果生まれる「真善美」は、ここに書いてあるように頭頂葉に実るということが明確になってくるのです。

 このあたりから、岡は今まで側頭葉との対比で前頭葉を肯定的に見ていたのですが、一変して頭頂葉との対比で前頭葉を否定的に見るようになるのです。

(※解説13)

 「善行」について一言。岡にいわせれば「自分が善行を行なう」などというのは真の意味での善行ではない。ではどうすれば良いのかというと、いってみれば「善行が善行を行う」のである。自分が善行を行うなどという意識が働いていてはダメである。つまり、見るに見かねて当然のことをしたまでだ、というのが真の善行だというのである。

 そうすると、ここでも「意識」というものが問題となってくる。西洋は意識を重視する「第1の心」の文明圏だから、意識を通した善行を善行だと思うのである。これが横文字のチャリティーとかボランティアの意味するところである。それは人目を気にしているし、善良さをどこかで装っているのである。しかし、日本では昔から「隠徳を積む」といって善行を隠す。つまり、善行の格調が一段高いのである。そして、人はそれに深い感銘を受けるのである。

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