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 2013.03.12 up

岡潔講演録(5)


「人とは何かの発見」 岡潔著

【 2】 老子の自然学

 物理とか化学とか無生物と云うものを、そんな風に見て来たんだったら、生物学のこの一番核心はこの単細胞生物と云う、その頃、まだビールスと云うもの分ってなかったからビールスでもかまいません、単細胞生物と云うものが、いかにして無生物ばかりのところへ出たかと云う事が学問の核心であるべきです。

 が、そこを、他の星から来たんだろうと逃げてしまってる。それなら同じ事です。その星に於いて、どうして単細胞生物が最初出たか、又、他の星から来たって逃げたって、今度は、またその星に於いてとなるからいつ迄たったって、これじゃ逃避であって問題が解決せん。無生物から生物が出たとするのがそもそも無理なんです。間違いなんです。

 実際不安定な素粒子、見てごらんなさい。生れて来て、又、消えていって了っている。無生物とは見えない。東洋では自然を無生物だなどと思ってやしない。これは直感なんでしょうね。老子の自然学と云うものは、自然は無生物だと思ってやしませんし、日本の古事記だって国は神が生んだとして、生物と無生物との間に区別を置いていない。これが正しいでしょう。これは直感でしょう。欧米人だけが無生物だと思うらしいですね。

 欧米人は無生物から生物が生れる、と、無生物が生物を生む、つまり、体が心を作ると云う風にしか思えない。それから五感で分らないものはないとしか思えない。この2つの非常な間違いを始めから持っているんですね。

(※ 解説3)

 「無生物とは何か」を知るには、東洋の「老子の自然学」が最適です。岡は晩年、中国を代表する思想家である胡蘭成と知遇を得てはじめて、その「老子の自然学」の内容を知るのです。これもいまだ正式に日本には伝わっていないものと思いますが、それは胡蘭成が1971年に「自然学」という本を書いて、その序文を岡に書いてほしいとその原稿を渡したのがきっかけです。その「老子の自然学」を次に挙げてみます。

 「先ず天地開闢てんちかいびゃくのはじめ、そくが現れる。そうするとせいが生まれる。次に生が生たるを失わないで、めいが生まれる。更に生が生たる命が命たるを失わないで、が生まれる」

 これが極めてシンプルではあるが、ダーウィンの進化論とは全く趣きを異にする「老子の自然学」といわれるものです。

 これだけではピンとこないでしょうからご説明しますと、先ず「無」とはおかわりのことと存じます、仏教では「空」といいます。「それに息が現れる」の「息」とは振動のようなもの、最近では「波動」という言葉をよく使います。次に「そうすると生が生まれる」の「生」とはこれが今問題の「無生物」のことです。

 老子は「無生物」のことを「生」と表現したところが斬新なところです。日本の古事記の「国生み」なども同じ発想が見られますが、西洋ではキリスト教の創世記やギリシャ神話を見ましても、とてもこういう発想は見られません。しかし、この「生」がわかること以外に、今のこの地球の環境破壊を根本的に止める方法はないのです。

 話をもとに戻して、そして「次に命が生まれる」の「命」とは、これが「動植物」のことです。そして「更に悟が生まれる」の「悟」とは何か。これが東洋の理想である「聖人」である。

 そうすると我々、現代人は老子にいわせると「生、命、悟」のどれに入るのでしょうか。無論、聖人には程遠いでしょう。さりとて無生物ともいえない。それに近い人も稀にはいますが、やはり「命」つまり動植物ということになると岡はいっています。これは自分のことなどは無反省に、ただ深く意味も考えずに「民主主義が理想だ」などと口走っている現代人の深く反省すべき点であると、岡は鋭い口調でいっているのです。

 つまり、西洋の自然観と老子の自然観との違いは2つある。1つは老子は石や水や風などの無生物のことを「生」といっているところであり、2つ目は現代人は聖人には程遠く、動植物に分類されるというところでして、やはりここでも岡が大いに賛同した「人類は今や狂える猿である」というセント・ジェルジの言葉が私の頭をよぎるのです。

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