(※ 解説3)
「無生物とは何か」を知るには、東洋の「老子の自然学」が最適です。岡は晩年、中国を代表する思想家である胡蘭成と知遇を得てはじめて、その「老子の自然学」の内容を知るのです。これもいまだ正式に日本には伝わっていないものと思いますが、それは胡蘭成が1971年に「自然学」という本を書いて、その序文を岡に書いてほしいとその原稿を渡したのがきっかけです。その「老子の自然学」を次に挙げてみます。
「先ず天地開闢のはじめ、無に息が現れる。そうすると生が生まれる。次に生が生たるを失わないで、命が生まれる。更に生が生たる命が命たるを失わないで、悟が生まれる」
これが極めてシンプルではあるが、ダーウィンの進化論とは全く趣きを異にする「老子の自然学」といわれるものです。
これだけではピンとこないでしょうからご説明しますと、先ず「無」とはおかわりのことと存じます、仏教では「空」といいます。「それに息が現れる」の「息」とは振動のようなもの、最近では「波動」という言葉をよく使います。次に「そうすると生が生まれる」の「生」とはこれが今問題の「無生物」のことです。
老子は「無生物」のことを「生」と表現したところが斬新なところです。日本の古事記の「国生み」なども同じ発想が見られますが、西洋ではキリスト教の創世記やギリシャ神話を見ましても、とてもこういう発想は見られません。しかし、この「生」がわかること以外に、今のこの地球の環境破壊を根本的に止める方法はないのです。
話をもとに戻して、そして「次に命が生まれる」の「命」とは、これが「動植物」のことです。そして「更に悟が生まれる」の「悟」とは何か。これが東洋の理想である「聖人」である。
そうすると我々、現代人は老子にいわせると「生、命、悟」のどれに入るのでしょうか。無論、聖人には程遠いでしょう。さりとて無生物ともいえない。それに近い人も稀にはいますが、やはり「命」つまり動植物ということになると岡はいっています。これは自分のことなどは無反省に、ただ深く意味も考えずに「民主主義が理想だ」などと口走っている現代人の深く反省すべき点であると、岡は鋭い口調でいっているのです。
つまり、西洋の自然観と老子の自然観との違いは2つある。1つは老子は石や水や風などの無生物のことを「生」といっているところであり、2つ目は現代人は聖人には程遠く、動植物に分類されるというところでして、やはりここでも岡が大いに賛同した「人類は今や狂える猿である」というセント・ジェルジの言葉が私の頭をよぎるのです。
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