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 2013.03.12 up

岡潔講演録(5)


「人とは何かの発見」 岡潔著

【 3】 造化の冥助

 で、20億年前に、50億年前かも知れませんが、単細胞生物が地上に現われた。この単細胞生物が進化して人になったんですね。身体だけ見てみましても、人の身体は非常に数多くの細胞から成っている。その細胞の配列は、実に精緻を極めたものです。単細胞がこんな生物、身体に進化した。これ実に不思議ですね。

 あなた方は、人が、自分でここ迄向上したんだと思いますか? そんな事思えんでしょう。造化が向上させてくれたんだとしか思えないでしょう。造化が単細胞を向上させて人の身体にまで持って来たんです。

 じゃあ、そうして一旦人と云うものが出来てしまったら、後は造化の手を放れて、自分だけでやれるか。振り返って見ますと、赤ん坊が生れる時、最初は母の胎内に単細胞として現われますね。それが細胞分裂を起して、そして人の身体になるんですね。これは、人が自分の力でやってるんでしょうか? そんな事思える人ないでしょう。やっぱり造化にやってもらっている。

 だから一旦、人になってのちも、絶えず造化によって人の五体を作ってもらっている。こう考えた方がずっとよく分るでしょう? 人がやってるなんてとても思われやしないでしょう。じゃあ、そうして、ちゃんとした身体を備えた人になれば、後は自分でやっているでしょうか。

(※ 解説4)

 先ずここで「造化」とは何かということが問題になると思います。岡はあるところで「造化」とは一言でいえば「大自然の善意である」といっていますが、もっと具体的に考えて一般的に使われる「神」とはどう違うのでしょうか。これも大変難しい問題ですが、岡はあえて「神」という概念と区別するために、この「造化」という言葉を持ち出しているのです。

 ここでも私の心の構造図を見てもらえばわかりやすいと思いますが、キリスト教の「神」や仏教の「仏」は、山崎弁栄の光明主義では「全一の点」といいまして、宇宙の知的法則の中心である第9識の「神」のことだと岡はいうのです。

 この第9識という心の世界は、人の体の運動を主宰したり、観念や理性などの直観を発動するところであって、生物を生み育て進化させ日常の内面外面の生命活動を主宰している心の領域ではないということです。

 ところが岡は心の世界で第9識の奥に第10識「真情の世界」があることを人類ではじめて発見するのですが、いわば「造化」とはその第10識の背後にある実在だというのです。だから岡にいわせれば、「造化」とは人類の持つ既成宗教の「神」という概念を遙かに越えた存在だということになります。

 なお、もともと「造化」とは中国の言葉でしょうが、岡が日本人の中でも最も高く評価する「芭蕉」は、その紀行文「おい小文こぶみ」の中で「夷狄いてき(野蛮人)を出で、鳥獣を離れ、造化にしたがひ、造化にかへれ」といっていまして、芭蕉も造化にかえることが人の理想だという観念を持っている訳ですので、岡も多分にその影響を受けたのではないかと想像されます。

(※ 解説5)

 ここをお読みになりますと、岡は人の身体を五感でわからない「造化」というものが造っているという前提になりますが、我々現代人は今話題のゲノムやIPS細胞という、いわゆる「物質」にその原因があるという前提ではないでしょうか。そこに岡との大きな考え方の違いがあるのです。

 私は以前から最先端医学のそのあたりに、非常な疑問と不安を感じるのでして、これは極めて哲学的考察になるのですが、いわゆる物質は「存在させられる」ものであって、独自に「存在する」物質などというものはあり得ないと私は思うのです。ですから、今までの自然科学的手法のように、そういう物質を出発点として医学を考えていくことはできないことになる筈です。

 そうすると、五感でわかるゲノムやIPS細胞は、五感ではわからない「造化」が発動して存在し、その「造化」の法則どうりにそれら物質が変化すると考える方が、よほど理にかなっているのではないでしょうか。

 このままの調子で医学が進めば、否もうすでに現在、人の体を維持するという「造化」がやってくれていたことを、人の小賢しい思惑や理屈を入れることによって、無知無能であるはずの人間が全て片替りしなければならなくなりますから、それは不可能であるばかりではなく、逆におほよそ危険極まりないことになりはしないかと非常に心配になるのです。

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