(※ 解説4)
先ずここで「造化」とは何かということが問題になると思います。岡はあるところで「造化」とは一言でいえば「大自然の善意である」といっていますが、もっと具体的に考えて一般的に使われる「神」とはどう違うのでしょうか。これも大変難しい問題ですが、岡はあえて「神」という概念と区別するために、この「造化」という言葉を持ち出しているのです。
ここでも私の心の構造図を見てもらえばわかりやすいと思いますが、キリスト教の「神」や仏教の「仏」は、山崎弁栄の光明主義では「全一の点」といいまして、宇宙の知的法則の中心である第9識の「神」のことだと岡はいうのです。
この第9識という心の世界は、人の体の運動を主宰したり、観念や理性などの直観を発動するところであって、生物を生み育て進化させ日常の内面外面の生命活動を主宰している心の領域ではないということです。
ところが岡は心の世界で第9識の奥に第10識「真情の世界」があることを人類ではじめて発見するのですが、いわば「造化」とはその第10識の背後にある実在だというのです。だから岡にいわせれば、「造化」とは人類の持つ既成宗教の「神」という概念を遙かに越えた存在だということになります。
なお、もともと「造化」とは中国の言葉でしょうが、岡が日本人の中でも最も高く評価する「芭蕉」は、その紀行文「笈の小文」の中で「夷狄(野蛮人)を出で、鳥獣を離れ、造化にしたがひ、造化にかへれ」といっていまして、芭蕉も造化にかえることが人の理想だという観念を持っている訳ですので、岡も多分にその影響を受けたのではないかと想像されます。
(※ 解説5)
ここをお読みになりますと、岡は人の身体を五感でわからない「造化」というものが造っているという前提になりますが、我々現代人は今話題のゲノムやIPS細胞という、いわゆる「物質」にその原因があるという前提ではないでしょうか。そこに岡との大きな考え方の違いがあるのです。
私は以前から最先端医学のそのあたりに、非常な疑問と不安を感じるのでして、これは極めて哲学的考察になるのですが、いわゆる物質は「存在させられる」ものであって、独自に「存在する」物質などというものはあり得ないと私は思うのです。ですから、今までの自然科学的手法のように、そういう物質を出発点として医学を考えていくことはできないことになる筈です。
そうすると、五感でわかるゲノムやIPS細胞は、五感ではわからない「造化」が発動して存在し、その「造化」の法則どうりにそれら物質が変化すると考える方が、よほど理にかなっているのではないでしょうか。
このままの調子で医学が進めば、否もうすでに現在、人の体を維持するという「造化」がやってくれていたことを、人の小賢しい思惑や理屈を入れることによって、無知無能であるはずの人間が全て片替りしなければならなくなりますから、それは不可能であるばかりではなく、逆におほよそ危険極まりないことになりはしないかと非常に心配になるのです。
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