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 2013.03.12 up

岡潔講演録(5)


「人とは何かの発見」 岡潔著

【 4】 人間活動の真実(道元)

 私、手を挙げようと思う。そうすると手が挙げられる。だけど、これ自分で挙げたんでしょうか? 立とうと思う、そうすると立てる。しかし、この時全身四百いくらの筋肉が、同時に統一的に働いたから、立てたんです。これ自分がやったんでしょうか?あるいは造化にやってもらったんでしょうか? ここに至って、どっちとも云える。だけどこの辺は、造化にやってもらったと云う方が実感が出るんじゃないかな?

 だから人は自分をもっと良く振り返って見る可き。手を挙げようと思う、この意欲は自分がしているんだけど、そうすると、うまく手が挙がる。そうすると子供は喜こびます。大人になると段々喜こばなくなる。これは喜こぶ方、いつまでも、手を挙げようと思ったら、手が挙がったら、喜こんでた方が人生は豊かなんだと思いますが、とも角、当たり前だと思うようになって喜こばなくなります。

 とも角、最初手を挙げようと意欲する。これは自分です。それから手が上ったら、子供なら大喜こびに喜こぶ。これも自分です。大人ならもういちいち喜こばなくなる。これも自分です。が、その中間は? 一体、人のどんな力が、全身四百くらいの筋肉を操って、とっさに統一的に操つって立つなどと云う事が出来るのです? 造化がやっているんです。

(※ 解説6)

 人間活動の基礎の全てを「造化」が受け持ってくれているという考え方、これは流石に仏教でも言ってないことではないでしょうか? 岡がなぜこの事実に気づいたかというと、実は10数年間真剣に読み込んだ道元禅師の「正法眼蔵」にそのヒントがあるのです。

 岡にいわせれば「正法眼蔵」は仏教の聖典であるというよりは「日本哲学」と呼ぶべきものであって、道元という純粋日本人が仏教に帰依しつつも、仏教の言葉を借りて日本人の世界観、人間観を独自に説いたものだというのです。

 何でも一掴みに掴むことが岡のやり方ですが、中でも岡が「正法眼蔵」の思想の核心中の核心だというのが、その巻頭に出てくる言葉「諸仏のつねにこのなかに住持じゅうじたる、各々かくかくの方面に知覚をのこさず。群生ぐんじょうのとこしなへにこのなかに使用する」というものでして、「諸仏」を「造化」に「群生」を「衆生」に置きかえればわかりやすいのではないでしょうか。つまり人とは「造化」の「操り人形」だと道元はいっているのです。

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