「一滴の涙」 岡潔著
【4】仏教の世界観
さて、ここで東洋の先覚者の云う所を聞きますと、例えばこう云っているのです。
自然は一口に云えば映像である、それから人の体も映像である。第1の心も映像である。この映像と云うのは、テレビの映像の様なあわただしく全体が変ってしまう映像ではない。しかし徐々にしか変らん部分とそれからその大切な部分は急速に変わる部分と2つ持っている。しかしながらこれはやはり映像ですね、存在ではない映像です。
で、自然は映像である。五尺の体も映像である。第1の心も映像である。第2の心だけが常に存在する。そう云ってるのです。普通これを五蘊皆空、唯有識心と云う風に云います。五蘊皆空と云うのは、五尺の体も物質の五原素の仮に集まったものだ、欲心と云われてる第1の心も五原素の仮に集まったものだ。唯有識心と云うのは第2の心だけが、これ識と云ったり識心と云ったり、心の原素です。これだけが常に存在するのだ。この五蘊皆空、唯有識心、と云う云い方は禅で云います。同じ様な云い方を般若心経でもしています。こういったものは少なくとも2千年前から云ってると思う。
それから万法唯心と云う云い方もあります。これはすべてのことの原因は心にあると云う意味です。この云い方なら釈尊の昔からあったでしょう。それから山崎弁栄上人は、一口に云えば、物質は第2の心の世界から生れて来てまたそこへ帰って行くのだ、こう云う意味になることを云ってられます。だから体は第2の心の映像だ、とそう云うことになりますね。第1の心も第2の心の映像だ。第2の心だけが常に存在する。だから本当の自分とは、第2の心だと云うことになる。そして常に存在するんだから、不死だと云うことになります。
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