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 2012.10.29 up

岡潔講演録(1)


(じょう)と日本人」 岡潔著 於 奈良自宅

1972年3月12日

【1】 日本人は情の人である

 今日初めて聞かれる方もあるかも知れませんが、その方にとっては関係ないことだけど、そうじゃない方もおられる。で、そうでない方に対して、今日また同じことを繰り返そうと思う。

 どういうことかというと、日本人は「情」の人である。人としてそれが正しいんです。そうであるということが非常に大事だのに、少しもそれを自覚していない。

 日本人は情の人であるということを自覚するということが、今非常にしなければならないことであると本当にわかって、本当にそう思うようになってもらいたいと思うんです。つまり、言葉でいえば「日本人は情の人である」だけなんです。そういえば成程と思う。これは日本人だからだと思いますが、しかし、それから先が進まないんですね。

 大阪へ行って淀川を見る。これはひどい、これではいけないと直ぐ公害を思うんだけど、川が見えなくなるとけろりと忘れてしまう。そんな風なわかり方ではさっぱりことは進展しない。で、そうじゃないようにしようと思う。

 そうすると、結局同じことを繰り返し繰り返しいうことになってしまう。そうする他はない。それで今日も同じことを繰り返していおうと思うんです。

(※ 解説1)

 岡先生はその処女作「春宵十話」ではしきりに「情緒」という言葉を使いまして、当初から「情」の領域に深く分け入っていきました。

 その本の出版は1963年ですから、このお話をされた1972年といいますと約10年の開きがあります。その10年という歳月が、この「情と日本人」という美事な知的体系に結晶したのです。私はこのことが20世紀における人類史の奇跡ではないかと思っています。何となれば人類は、この原理によって今日の時代の行き詰まりを打開し、21世紀以降の世界を切りひらく可能性が生まれてきたと思うからです。

(※ 解説2)

 この「情」という言葉ですが、最近までは「愛」という言葉がもてはやされました。これは西洋の影響かも知れませんが、人類の諸々の問題を解決できるのはこの「愛」であるというのでした。

 しかし、どうもその後の情況を見てみると、いろいろと疑問が生まれてきています。特に問題なのは「愛と憎しみのドラマ」という言葉があるように、「愛」は「憎しみ」に変わり得るということです。人類は今、愛と憎しみの坩堝の中で、もがき苦しんでいるといっても過言ではありません。

 一方、昨年の大震災以後、「絆」という言葉がよく使われ出しましたが、これは日本人の本心によく合っているからでしょう。この「絆」こそが、岡のいう「情」のことだと私は思うのです。因に、日本では万葉の頃から「情」と書いて「こころ」と読ませています。つまり、日本では昔から「こころ」というと「情」のことだったのではないでしょうか。

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