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 2012.10.21 up

岡潔講演録(1)


【 2】 幸福と道徳

 戦後、幸福ということをよくいう。世界のはやりに従って、日本はことにアメリカの真似をして、近頃の人は幸福ということをよくいうんですが、戦前は幸福などといわなかったものです。

 幸福とは何が幸福かということですが、これは知、情、意のうち「情」が幸福なんです。知が幸福だの、意が幸福だの、意味をなさない。よし意味をなしたところで、そんな幸福どうでも良い。自分の情が幸福と思う、それが幸福なんでしょう。

 人は動物ですが、動物の中で割合信頼できます。なぜ信頼できるかというと、人には人の情というものがあるから信頼できる。みすみすなことは大抵はしない。それは人には人の情というものがあるからです。

 こんなことをしてはいけないんだがなあと情の思うことを、知や意のすすめによってする。そうするといつまでも心がとがめる。これが情です。漱石の「こころ」もこれを書いている。

 そうすると道徳とは人本然の情に従うことである。そういえると思う。また情というものがなかったら、道徳とは何かという前に、道徳というものが存在し得ないでしょう。人に情あるが故に道徳というものが存在し得るのです。

 道徳とは人本然の情に従うのが道徳です。背くのが不道徳です。ところが古来そういった人は一人もいない。孔子なんか随分道徳について説いた。それが儒教ですね。ところが儒教はいろんな形式は詳しく説いていますが、内容は説いていない。

 儒教の内容は「仁」です。ところが仁とは何かということいってない。だから儒教は形式は分っても、内容は分らない。仁とは何であるかというと、人本然の情、それが仁でしょう。情の中から不純なものを削り去って、良い所だけを残して、これを「真情」ということにすると、真情が仁です。ところがそういってない。

 真情が仁だといえば誰にでも分る。だから真情に従って行為するように努めるのが儒教の修行になる。ところが内容が仁であるのが道徳であるというんだから、どうしていいか全く分らない。それで形式ばかり重んじている。それが儒教でしょう。少しも実があがってない。

 情と知と意を比べてみますと、情は自分の体だけど、知や意はなんか着物のような、そういう感じがするでしょう。知的や意的に分ったって、本当に膚で分ってないという、そういう気がするでしょう。

 今度、赤軍派の学生が無茶をやった。そうすると皆それを非難している。それで日本は赤軍派の学生のようなものを出したという短所よりも、ああいうものが出たら皆非難するという長所を現わしたわけです。つまり赤軍派には情がない、惨酷であるということをひどく非難している。

 ああいうものが出たら直ぐそれを非難する。これが日本人の長所です。短所を恥じるよりも長所を誇った方が良い。しかし、そうであるという自覚がない。だからそれから先、話が少しも進展しない。

 こういうものが出るのは、人の本体は情であるから、教育は何よりも情をつくるべきである。教育は全く間違えていると、そういう意見は新聞にはひとつもなかった。情が非常に大事だということ、分るでしょう。

 情が自分であるという自覚があったら、それを踏み台にして知や意を働かすことができるんだけど、その自覚がなかったら、何が何だか分らないのですね。

(※ 解説3)

 芭蕉の言葉に「理に尽きたるもの」というのがありますが、この短い文章の中に今人々の関心の高い「幸福とは何か」「道徳とは何か」が簡潔に語られていて、非常に美しいと私は思うのですが、皆さんは如何でしょうか。何度もいいますが、「情」とは人の喜びを喜び、人の悲しみを悲しむ。これあるが故に真の幸福も、真の道徳もあるんじゃないでしょうか。岡が高く評価する宮沢賢治は「世界に一人でも不幸な人がいる間は、私は幸福ではあり得ない」といいましたが、賢治もまさに「情の人」だったのだと思います。

(※ 解説4)

 儒教はしきりに「仁」ということを言いますが、「仁」というと文学的表現になってしまって、人それぞれ解釈の仕方が違ってくるのではないでしょうか。言葉は概してそういう弊害を生むものです。しかし、岡のいう「真情」とはいわば理学的表現でして、浅い心の情が感情、これは自分がうれしい、自分が悲しい。しかし、もう一方の無私の情が真情でして、人の喜びを喜び、人の悲しみを悲しむ。こういえば明快ですね。今の心理学では人の心は知情意と別れるとしかいってないですが、それでは人の心を本当に把握することはできないと思います。人の知情意には2つあるんです。浅い自我の知情意と深い無私の知情意と。そこから心理学を再出発させるべきだと私は思っています。

(※ 解説5)

 年配の方にはおわかりのことと思いますが、赤軍派のことが出てきました。左翼思想にこりかたまり、浅間山荘にたてこもり日本中がテレビに釘づけになった大事件を引き起こしました。そこには「情」のかけらもありません。これがまさに力の思想であり、対立の意志の思想です。マルクスやレーニンの思想を学ぶうちに、知らず知らずその色に染まっていったのでしょう。当時はそういう思想が大流行でした。

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