【 2】 幸福と道徳
戦後、幸福ということをよくいう。世界のはやりに従って、日本はことにアメリカの真似をして、近頃の人は幸福ということをよくいうんですが、戦前は幸福などといわなかったものです。
幸福とは何が幸福かということですが、これは知、情、意のうち「情」が幸福なんです。知が幸福だの、意が幸福だの、意味をなさない。よし意味をなしたところで、そんな幸福どうでも良い。自分の情が幸福と思う、それが幸福なんでしょう。
人は動物ですが、動物の中で割合信頼できます。なぜ信頼できるかというと、人には人の情というものがあるから信頼できる。みすみすなことは大抵はしない。それは人には人の情というものがあるからです。
こんなことをしてはいけないんだがなあと情の思うことを、知や意のすすめによってする。そうするといつまでも心がとがめる。これが情です。漱石の「こころ」もこれを書いている。
そうすると道徳とは人本然の情に従うことである。そういえると思う。また情というものがなかったら、道徳とは何かという前に、道徳というものが存在し得ないでしょう。人に情あるが故に道徳というものが存在し得るのです。
道徳とは人本然の情に従うのが道徳です。背くのが不道徳です。ところが古来そういった人は一人もいない。孔子なんか随分道徳について説いた。それが儒教ですね。ところが儒教はいろんな形式は詳しく説いていますが、内容は説いていない。
儒教の内容は「仁」です。ところが仁とは何かということいってない。だから儒教は形式はわかっても、内容はわからない。仁とは何であるかというと、人本然の情、それが仁でしょう。情の中から不純なものを削り去って、良い所だけを残して、これを「真情」ということにすると、真情が仁です。ところがそういってない。
真情が仁だといえば誰にでもわかる。だから真情に従って行為するように努めるのが儒教の修行になる。ところが内容が仁であるのが道徳であるというんだから、どうしていいか全くわからない。それで形式ばかり重んじている。それが儒教でしょう。少しも実があがってない。
情と知と意を比べてみますと、情は自分の体だけど、知や意はなんか着物のような、そういう感じがするでしょう。知的や意的にわかったって、本当に膚でわかってないという、そういう気がするでしょう。
今度、赤軍派の学生が無茶をやった。そうすると皆それを非難している。それで日本は赤軍派の学生のようなものを出したという短所よりも、ああいうものが出たら皆非難するという長所を現わしたわけです。つまり赤軍派には情がない、惨酷であるということをひどく非難している。
ああいうものが出たら直ぐそれを非難する。これが日本人の長所です。短所を恥じるよりも長所を誇った方が良い。しかし、そうであるという自覚がない。だからそれから先、話が少しも進展しない。
こういうものが出るのは、人の本体は情であるから、教育は何よりも情をつくるべきである。教育は全く間違えていると、そういう意見は新聞にはひとつもなかった。情が非常に大事だということ、わかるでしょう。
情が自分であるという自覚があったら、それを踏み台にして知や意を働かすことができるんだけど、その自覚がなかったら、何が何だかわからないのですね。
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