【3】 情の世界地図
日本人は誰でも、情が自分だといえば成程そうだとわかりますね。そうすると、情が自分だという自覚がなかったら、どんなにものがうまく運ばないのかということの方を知れば良いでしょうが、ともかく情が自分だということは、日本人ならいわれたら直ぐわかる。
だが、本当の自分とは情であると、はっきり思った日本人は一人もいないらしい。何故かといったら、そんなこと誰も書いてない。誠に不思議なことだけど、情が自分だといった人はありません。日本人にないんだから、世界にそんな人はありません。そういう人類は一人もいないということになる。
東洋は情を自分だとは思わないらしい。心は情、知、意の順に働きますが、その情、知、意と連ねた心というものを自分だと思っているらしい。これは日本人である私には想像のつかないことです。どうすればそんなことが思えるのかわからないが、そう思っているに違いない。
その証拠には、中国では知が基だといいますが、仏教も知が基だといっている。それだったら心が自分だと思っているんでしょう。そうでなければ、そんなこといえる訳がない。
西洋人に至っては、情の中で大脳前頭葉でわかる部分、これが感情ですね。これは極く浅い情です。もっと深い情を西洋ではどういっているかというと、ソール(魂)といっている。これが情です。
西洋人は悪魔に魂を取られはしないかと思って、びくびくしている。そうすると情というものは大切なものではあるが、自分ではないと思っているんですね。
東洋人はまだしも、心を自分だと思っているから、その中には情も含まれますが、西洋人に至っては情を自分だと思っていないらしい。その魂という程の深みの情、これも今の日本人にはわかりにくいでしょう。
感情などというのは極く浅い情。もっと深い情とは一口にいって、どんな風なものか。これは一例をあげれば良い。日本人は情というものを無意識的によく知っている。それで一例をあげれば足りるんです。
明治になってからの話ですが、お母さんと子供が住んでいた。子供が13歳になった。そして禅の修行をしたいといい出した。それで修行の為に家を出ることになって、いよいよ別れるという時になって、お母さんはこういった。
お前の修行がうまくいって、人がちやほやしている間は、お前は私のことを忘れていても良い。しかし、お前の修行がうまくいかなくなって、人に後指を指されるようになったら、私を思い出して、私の所へ帰って来ておくれ。そういった。
それから30年程たった。子供は修行がうまくいって、偉い禅師になった。松島の碧厳寺という大きなお寺の住職をしていた。その時、郷里から使いが来て、お母さんは年をとって、この頃では寝たきりである。お母さんは何ともいわないが、私達がお母さんの心を推し量ってお知らせに来た。そういった。
それで禅師はとるものもとりあえず家に帰って、寝ているお母さんの枕辺に座った。そうするとお母さんは子供の顔を見てこういった。
この30年、私はお前に一度も便りをしなかったが、しかし、お前のことを思わなかった日は一日もなかったのだよ。
私はこの話を最初、杉田お上人から聞いた。その時、涙が流れて止まらなかった。これが情の本体です。
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