(※ 解説22)
「生き生きするとは、幼な児を見れば良い」と岡はいっているが、岡の人間観は首尾一貫して幼児を理想とするもので、いってみれば幼児の心の世界を科学したといえるのである。「これが全ての学問の基礎になる」とまでいっている。
東洋は概して幼児を理想とする。例えば老子は「嬰児復帰」といった。梁塵秘抄()は「遊びをせむとや生まれけむ、戯れせむとや生まれけむ」といっているし、良寛は実際、子供達と共に遊んだ。私の絵の会の大野長一は「子供を拝む」とまでいっている。
ところが現代の西洋の心理学では子供を未熟、野蛮、未開と見る傾向がある。つまり大人の世界が理想なのである。しかし考えてみれば、今日の人類の文明の行き詰まりは、その大人の世界の論理をどこまでも延長した結果に外ならないのではないか。今の世の風俗を見ていると、私には赤ちゃんが一番まともに思われて仕方がないのである。
(※ 解説23)
心の働きを岡は情、知、意の順に働くといっている。単純なことではあるが、これも世界で誰もいっていないことである。我々はよく知情意というが、それは多分2000年の影響を受けた東洋の発想からきているのではないだろうか。
極く荒っぽい言い方になるが、東洋では情の観点が余りないので、知と意の2つで心の働きを説明しているように思う。これが仏教でいう修行(意)と悟り(知)であり、陽明学の知行(知と意)合一である。東洋は、岡のいう情、知、意の情を飛ばして、または知、情、意と情を無理に間にはさんで、知と意だけを合一するパターンといって良い。大体、知情意の知から情が湧く訳がないのである。それが証拠に仏教徒はこういう。釈尊の素晴らしい言葉(知)はわかるのだけれど、仲々その実感(情)が湧かないのが悩みの種であると。
一方、岡の情、知、意の順だとこうなる。普段は人の情は自我意識や本能のため濁っているのである。その情が澄んで濁りが消えてきた時、知を働かせれば正しい知が生まれるのである。どうすれば情が澄んでくるか。反省と感謝である。しかも、それには際限がない。そして最後に、正しい知に正しい行動(意)が生まれるのである。だから結論をいうと、情なくして真の悟りも、知行合一もあり得ないのである。
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