(※解説27)
今あまり使われなくなった「道義」と「理想」という言葉だが、この2つの言葉は実は
「私(自分)」というものを入れては成立し得ないものである。つまり「無私の心(第2の心)」から生まれるものが真の「道義」であり、「理想」なのである。
例えばよく引く例なのだが、法律を守らなければ罰せられるから、そのために法律を守るのだと思っている人がいたとする。しかしそれだったら、法律を守るのは「自分のため」である。それは「道義」とは違い、「法の順守(コンプライアンス)」である。
しかし、法律を守るのは当然のことながら、「人様のため」ではないだろうか。「人様のため」には、これだけはやってはいけないと抑止する。これが真の「道義」であり「道徳」である。だから「道義」は一見あいまいではあるが「法の順守」よりも更にきめが細かいのであって、成文化されてないことでも人様に少しでも迷惑なことは全て抑止するのである。
また逆に成文化されていることでも、現実に合わなくなってしまったことが時としてある。その場合も「道義」であれば「人様のため」という大原則から柔軟的に対処できるのであるが、そういうことに氣づいてない人が今多いのではないだろうか。
因に我々日本人の日常の生活をよくよく観察してみると、日本人は「法律」の中に住んでいるといいながらも、実はこのような「道義」の中に住んでいるように見えるのである。これが他国にはない日本社会のズバ抜けた安定性の源となっているのである。
一方「理想」についても同じことで、今は「アメリカン・ドリーム」という言葉の影響からか、一般には「夢」という。日本人の好きな言葉である。しかし今使われている「夢」といえば例えば、宝くじに当る夢、スポーツの有名選手になる夢、キャリアーを積んで実業家になる夢など、全て「自分のため」の願望を「夢」といっているようである。
しかし本当の「理想」とは「無私の心」から生まれるもので、自らのことは捨ておき何か1つでも人様や社会に役立ちたいと「志」を立てることこそが、これが真の「理想」といえるのではないだろうか。昔はそれを「真・善・美」といったのである。
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