(※解説29)
岡はここで「子を守る会」を提唱し、更に日本の再建を期して「葦牙会」を提唱しているのだが、この2つの会はその後どう推移したのだろうか。
岡の生前に側近の1人であり岡と度々活動を共にし、岡が亡くなってからは岡の膨大な資料の収集整理と、岡の録音テープを文字化することに長年携ってきた、奈良在住の松澤信夫先生に聞いてみた。
「子を守る会」は実際に会員が集まり、正式に会が発足したという記憶はないと松澤先生はいう。当然ながら岡のこの発言には日教組の猛反発があったのは事実であるし、ましてこの頃を境にして岡の出版は止まり、「岡潔」の名はいつのまにか日本から消え去ってしまうくらいだから、「子を守る会」は単に岡の提唱倒れに終ってしまったようである。
しかし、「葦牙会」の方は当時としてはそこそこの反響を呼び、大阪と東京にそれぞれ200名前後の人達が名簿に名を連ね、当初は活発な活動を展開したのであるが、諸々の事情から2、3年のうちに次第に衰退し、ついには20名ほどの人達が細々と岡の話に耳を傾けるだけの会となってしまったのである。
岡本人にとってみても、当初の「葦牙会」は岡の理想からは程遠い内容の会であったようで、ついには岡はその「葦牙会」を解散し、1973年には「春雨村塾」として先程の20名程で再出発することになるのである。
しかし、細々とでも少数の会員が集い、時には10人を下回る時もあったが、岡の話に耳を傾けたことにより、結果的に岡の肉声の録音が残ったことは、我々にとっては掛け替えのないことである。
実はこの録音だけでなく、京都産業大学の講義(季刊誌「真情」に連載中、詳しくは「研究会情報」参照)の録音も相当な数に上るのであるが、これによって晩年大きく変貌する人類の宝庫ともいえる岡潔の思想が、辛うじて後世に残ることになったのである。
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