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2014.07.01up

岡潔講演録(11)


「自然科学は間違っている」(4)

【5】 2つの心

 人には心と云うものがある。人の心と云う意味の心と云う言葉がある。その人の心と云う意味なら人には心が2つある。心理学が対象にしている心を第1の心と云うことにすると、この心は大脳前頭葉に宿っている。宿っていると云うのは中心がそこにあると云う意味である。

 この心は私を入れなければ動かない。そのあり様はこんな風である。私は愛する。私は憎む。私はうれしい。私は悲しい。私は意欲する。更に私は理性する。この理性も私を入れなければ動かない知力である。自ら働くのではない。この心の分かり方は必ず意識を通す。

 ギリシャ人や欧米人はどんなに詳しく捜しても、この心以外に心を知っていると云う痕跡は見当たらない。第1の心しか知らないのである。

 ところが、東洋人は第2の心があることをほのかに知っている。日本人は大分よく知っている。第2の心は大脳頭頂葉に宿っている。「正直の(こうべ)に神宿る」という諺が日本にあるが、その神が第2の心である。この心は無私である。無私とは私無しと云うことである。私無しとは私を入れなくても働くと云うことである。また私を入れようと思っても入れようがない。

 この心の分かり方は意識を通さない。どんな風にするかと云うと、例えば赤ん坊は意識を通さないで幸福である。つまり体が(じか)に幸福を感じる。これは意識を通さないで幸福が分かる。

 ところで自然が刹那生滅であれば、肉体は云うまでもなく刹那生滅である。そうすると、この体に閉じ込められた第1の心も刹那生滅である。

 第2の心あるが故に、これが常に存在しているから、体と云う映像は70年も映写し続けられているのである。

 従って、説明するまでもなく、第2の心が自分である。あとは映像に過ぎない。だからこの心は常に存在し、云うまでもなく人は不死である。死ぬのは映像である体だけである。

(※解説5)

 これが人類に全く新しいビジョン(世界観)を提供する岡の仮説「2つの心」である。科学には仮説が要ると岡もいっているが、「心の世界」にこういう仮説を提唱した科学者も哲学者も、いまだかっていなかったに違いない。

 東洋と西洋がこの「2つの心」によって、これほど簡潔に美しく定義されるとは誰も想像できなかったのである。今までは誰もが東洋と西洋とは何処か何か違っていると薄々わかっていても、それが何故か何によるのかは仲々言葉で表現できなかったのである。

 というのは今日の心理学のいうように、人類の「心の構造」は全て共通であって、それに違いなどある訳がないという西洋主導の考え方が支配的であって、そのような前提からは岡のような結論など出てくる筈はないのである。

 しかし、岡はフランス留学で初めて西洋に接してから数えて40年、東西文明の本質をジッと見据え、それぞれの文明を「心の構造」に還元するという操作を綿密にくり返した結果、ついにこの結論に達したのである。

 そして岡は我々にこういっている、「あなた方は私のヒントがあるから進歩は格段に早いですよ」と。さあこれからは、この岡の仮説を念頭において各自がみずからの「真新しい知情意」によって、東西文明を精密に見直していこうではないか。

 そうすることによって必ずや、丸でこんがらがってしまった日本社会や世界の多くの難問が、糸巻きの糸がほぐれるように次第に氷解していくものと私は信ずるのである。

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