「自然科学は間違っている」(4)
【5】 2つの心
人には心と云うものがある。人の心と云う意味の心と云う言葉がある。その人の心と云う意味なら人には心が2つある。心理学が対象にしている心を第1の心と云うことにすると、この心は大脳前頭葉に宿っている。宿っていると云うのは中心がそこにあると云う意味である。
この心は私を入れなければ動かない。そのあり様はこんな風である。私は愛する。私は憎む。私はうれしい。私は悲しい。私は意欲する。更に私は理性する。この理性も私を入れなければ動かない知力である。自ら働くのではない。この心の分かり方は必ず意識を通す。
ギリシャ人や欧米人はどんなに詳しく捜しても、この心以外に心を知っていると云う痕跡は見当たらない。第1の心しか知らないのである。
ところが、東洋人は第2の心があることをほのかに知っている。日本人は大分よく知っている。第2の心は大脳頭頂葉に宿っている。「正直の頭に神宿る」という諺が日本にあるが、その神が第2の心である。この心は無私である。無私とは私無しと云うことである。私無しとは私を入れなくても働くと云うことである。また私を入れようと思っても入れようがない。
この心の分かり方は意識を通さない。どんな風にするかと云うと、例えば赤ん坊は意識を通さないで幸福である。つまり体が直()に幸福を感じる。これは意識を通さないで幸福が分かる。
ところで自然が刹那生滅であれば、肉体は云うまでもなく刹那生滅である。そうすると、この体に閉じ込められた第1の心も刹那生滅である。
第2の心あるが故に、これが常に存在しているから、体と云う映像は70年も映写し続けられているのである。
従って、説明するまでもなく、第2の心が自分である。あとは映像に過ぎない。だからこの心は常に存在し、云うまでもなく人は不死である。死ぬのは映像である体だけである。
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