(※解説7)
岡は「人類の滅亡」とはいわない、「自滅」という。タコが自らの足を食べるように、人類はいま自らを滅しているのである。そのメカニズムがわからなければ、その「自滅」を止めることはできないのである。
その原因は何か。岡はいま世界を覆っている「西洋の世界観」にあると見ている。ではそのキーワードは何か。それは「自他対立」だと私は思う。人と人、人と自然が「自他対立」しているのである。岡はこういっている。「人は人という名の自分、自然は自然という名の自分である」と。誠にうまい表現であるが、岡は人と人、人と自然とは何処かで何かでつながっていると見ているのである。
この「つながっている」という発想が西洋にはないのである。西洋は第1の心(自我)の世界観が強いため、自分は所詮人や自然から飽くまでも独立した存在だとしか思えないのである。しかし、日本人である哲学者の西田幾多郎は、その「つながっている」という感覚を「絶対矛盾の自己同一」という有名な言葉で表現したのではないだろうか。
従って、どうしても西洋の人間観は完全な「個人主義」であり、自然観については、自然は人と全く無縁の命を持たないただの「物質」であるという「物質主義」にならざるを得ないのである。
更に西洋は、第1の心の「自己本位」が根底にあるから、命をもたない「物質」であるならば利用するだけ利用すれば良いのではないかという発想が生まれ、「自然征服」から「自然開発」、そしてそれらを支える「自然科学」が発達したのではないだろうか。
しかし、どうもおかしいのである。というのは我々日本人の感性には何か違和感を感じるのである。それは何故だろうか。我々日本人には「自他対立」を根拠とする「自然科学」は、自らの足を食べる「タコ」になってしまっているのではないかという疑問が湧くのである。というのは「自然科学」には自然の痛みを感じるセンスが丸でないのである。
それに対して岡は、日本独特の「情」という言葉を持ってきたのである。岡によると「情」は流体だから、流体である「情」が心の底で人と人、人と自然とをつなげているのである。日本では昔から人と人とが「情」でつながるのを「人情」(今は絆という)といってきたのだし、人と自然とがつながるのを「風情」といってきたのである。
この「風情」として見る日本の自然観は、西洋のように「自他対立」しないのであって、自然というものをみずみずしい生きた自然と見るのである。老子のいう「生」である。
従って我々日本人は自然のよろこひがわかる、自然の痛みがわかるという日本独特の「情」の自然観から出発して、今までの自然科学のように自然の法則をただ無機的に調べ利用するのではなく、自然の法則に謙虚に如何にうまく従うかという西洋とは違う全く新しい「自然科学」を立ち上げていくべきではないだろうか。
西洋は非常にタフで精密な大脳前頭葉(理性)を使うから、得てして我々は西洋に頭が上がらないのであるが、いくら精密な理性を使っても発想の原点がいつまでも未熟な「自他対立」であっては、「人類の自滅」は防ぎようがないのである。日本人の自覚が待たれるところである。
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