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2013.06.15up

岡潔講演録(6)


「歌で読みとく日本歴史」
第2部 「神代(かみよ)の文化」
「昭和への遺書」岡潔著

【5】仏教の欠点

 聖徳太子は、仏教という言葉で述べられた文化が、個人 的には、神代の文化によく合うものであることを見抜かれて、これを日本に取り入れられた。 そして御一代で仏教の本質を、ある深さまでは極め尽くして、その上これを政治に表わして人 の心の1つにとけ合った国を造ろうとなさったが御成功なさらなかった。これは当然であるこ とが歴史をみればよくわかる。こんなことがお出来になったのはほぼ初めから知っておられた 証拠である。

 そのうちに仏教は釈尊の戒めを破って政治に関与し、果 たして墜落して迷信化した。そうして一方に於て世が乱れるもとを作ったのであるが、他方に 於て仏教は一般の文化に滲透して西行の歌になる。

  心なき身にもあはれは知られけり

  鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮

 非常によい歌だが神代調とは全然違う。

(※解説7)

 あれほど仏教を信奉していた岡先生が、一転して仏教の 欠点について1969年のテープの中で次のように語っている。

 「仏教は非常に欠点を多く持っている。一番気に入らん のは、仏教徒に愛国者は先ずない。いろいろあるんですが、欠点を3つほど挙げておきます。 その1つは愛国が既にない、まして愛民族はない。仏教は度々皇統を危くしている。蘇我氏の 時にしろ、道鏡の時にも。それから今言いました通り、徹底的な側頭葉である。しかもそれで 功徳があるというから酷い。それで信長は持て余したんです。『なむあみだぶつ』といった ら、もう何でもできると思うてやってるもんやからかなわん、側頭葉です。それで3万の信徒 を焼き殺したり斬り殺したりしたんです。」

 この「仏教は徹底的な側頭葉である」というのも卓見で す。仏教の修行方法の本質をこれほど看破した言葉もないでしょう。仏教は勤行(ごんぎょ う)とか念仏とかいって、お題目をくりかえし唱えることによって境地が進むと考えているよ うですが、これを岡は「側頭葉」だと言ってのけたのです。岡によれば大脳側頭葉はただの機 械室(コンピューター・ルーム)であって、意味や内容抜きの記憶や言語を司るところでし て、ここにあるのが「標語」なんです。つまり機械的な標語を唱えれば唱えるほど、人の心が 向上すると仏教は言っていることになって、これは明らかに矛盾です。

 岡の大脳生理では、機能の1番浅い「機械の座」が側頭 葉、次に浅い「自我の座」が前頭葉、1番深い「無私の心の座」が頭頂葉という位置づけです から、側頭葉をいくら使っても頭頂葉に影響が及ばないのは道理ではないでしょうか。

 最後に愛国について。愛国とか愛民族とかいうのは、自 分1人のことよりも国や民族全体のことが遙かに心配になるということであって、個人主義で あってはできないことです。ところが岡によれば、西洋は西洋型個人主義であって、東洋も実 は西洋型ではないが東洋型個人主義であるというのです。しかし、日本は本来「情の国」だか ら個人主義ではあり得ず、愛国や愛民族が純粋な形で出てきやすいと思うのです。それが日本 歴史には「善行」や「自己犠牲」という形でよく現れているのではないでしょうか。

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