「歌で読みとく日本歴史」
第2部 「神代(かみよ)の文化」
「昭和への遺書」岡潔著
【9】高知の宿
私は今高知の宿でこれを書いている。桂浜へ行って坂本
龍馬の銅像を見た。龍馬は真我の人であった。解脱しきっている趣きは菟道稚郎子より一層よ
くわかる。
次の日、雨の日の寺田先生の御生家を見て、お会いした
ことはないのだが非常に懐かしかった。また牧野植物園を見て、この人の御生涯から非常な感
銘を受けた。お二人共外界が御自分の心の現われであることが、もし誰かからそう聞けばすぐ
わかる所まで行っておられたのである。私はそう思った。
草を伸ばすはこれ天の道、草を除くはこれ人の道という
言葉がある。芭蕉は、
春雨や蓬を伸ばす草のみち
と詠んでいる。菟道稚郎子は春雨、仁徳天皇や「かま
ど」の民は草である。坂本龍馬は春雨、維新の大業を成就した人達や、それをして貰った日本
国民は草である。これが真我の人の真面目である。芭蕉の句には、目の及ぶ限り万古の春雨が
降っているだろう。雄大、雄勁である。
日本では、こういう人達は高天が原(道元禅師に言わせ
ると、解脱した人の死の位)から、何かをする為に生れて来て、するだけのことをし終るとま
たさっさと高天が原に帰るのである。私はそう思う。稚皇子は世に範を示すために生まれて来
られたのだと思う。龍馬は日本の滅亡を救うためである。死ぬと殺されるとが別だと思うのは
小我である。これが日本民族の構成である。
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