「歌で読みとく日本歴史」
第2部 「神代(かみよ)の文化」
「昭和への遺書」岡潔著
【10】高天が原
道元禅師や芭蕉のような、2千年に1人という大天才
も、日本民族にその必要があるから、高天が原から生まれて来て、またそこへ帰ったのであ
る。調べに直して聞けば、芭蕉の句は再び神代調である。人の世には人麿・赤人で消えている
流れが、また突然ここに出ているのである。芭蕉が高天が原から生まれて来たこと明らかであ
ろう。
道元禅師の言う、「真我の人」の生の位、死の位である
が、肉体の本性は無明であるから、これを持たされていると非常に智覚しにくい。たとえば塀
で囲まれているようなもので、孔をあけなければ外の景色が見えない。肉眼は孔のようなもの
だろう。塀を取り払えば孔なんかいらない。だから、肉体が無くなれば智覚は非常によく出来
るようになる。情緒するには肉体はいらない。無明は邪魔になるだけである。意志は、真我の
意志だけが働く。高天が原は共通の死の位だが、意志体系についてはどうかというと、はっき
りしているのは、伊勢の内宮と万世一系の皇統とである。これは八百万の神々の、誓いであ
り、願いである。私はそう思っている。
黄老の道ではどう思っているのだろう。ともかく非常に
よく似ている。これらも胡蘭成氏のいう悟り識のうちである。
高天が原がよく知りたければ、日本の歴史をよく見れば
よいのである。
日本の芸術のうち、非常によいものは皆高天が原から来
ている。たとえば歌については、神代調のものだけでは無い。西行のあれもそうである。無常
の反面を詠んだものだが、反面しかわからない人にはこうは詠めない。
しかし、高天が原の文化というものはあり得ない。日本
民族の中核の文化というのが正確ないい方である。然し、少し生硬である。中核とは、高天が
原からじかに来ているという意味である。神代の文化と言おうと思う。網羅する方法はあるか
無いか知らない。私は時に触れ折りに触れて印象に深く残ったものだけをとることにしてい
る。
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