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2013.06.15up

岡潔講演録(6)


「歌で読みとく日本歴史」
第2部 「神代(かみよ)の文化」
「昭和への遺書」岡潔著

【11】幽玄の美

 芭蕉は植物を多く詠んでいる。特に花が多い。その中か ら二句取り出してみよう。

  ほろほろと山吹散るか滝の音

  草臥(くたびれ)て宿借る頃や藤の花

 何という幽玄な美しさであろう。これをじかに神代の花 と呼ぼうではないか。

 大稚郎子(おおいらつこ)を讃えて拙い歌を作った。

  川の面は誰(た)そ彼(が)れ行きて宇治の瀬の
  音高鳴るを聞きて佇む

 大龍馬の銅像は桂浜にあるから、大町桂月の歌を捧げよ う。

  見よや見よただ月のみの桂浜
  海の中より登る月影

(※解説14)

 この「幽玄の美」というものが、真の芸術には欠かせな いものだと私は思う。これの伴わない芸術が今はまことに多いのであるが、幽玄は真の芸術の 第1条件ではないか。

 しかし、この「幽玄」とは何だろう。私はそれは「意識 を通さない美」だと言いたい。今は芸術は迫力だ、色彩だ、自己主張だと、人の意識に訴え人 の意識を刺激することばかりやっていて、意識を通さない美、つまり岡にいわせれば 「微けさ」には丸で無関心である。これは意識を重視する西洋文明の弊害によると思 うが、それは何故かというと、意識(第6識)は五感(前5識)や欲望(第7識)と同じく、 刺激を強めることによってしか感じないものであるから、次第にセンサーが麻痺していくので ある。従って、これら全てが第1の心の特徴である。

 岡は「微けきものは強い!」といったが、この「微けき もの」が「幽玄」である。芭蕉の数々の句にはそれが如実に現れているし、能や茶道や生花な ど日本の伝統文化にはその「意識を通さない美」つまり「幽玄」を感じさせるものが少なくな いのである。

 猶、岡先生には俳句は沢山あるのだが、和歌はまことに 少ない。この「川の面は…」の歌は和歌では唯一の作ではないだろうか。

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