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2015.02.09up

岡潔講演録(13)


「人とは何か」

【3】 泥洹(ないおん)

 ところで、中国に黄老(こうろう)の教えというのがある。 黄老の教えは、頭頂葉には泥洹宮(ないおんきゅう)というものがあると云ってる。(きゅう)(みや)という字を書きますが、(ない)(どろ)という字、(おん)は氵に一して日して一と書く。泥洹(ないおん)と読む。どういう意味かと云えば、有無を離れた境という意味です。

 有無を離れた境とはどういうことかと云うと、大小遠近彼此の別の無いところという意味です。秋風から大小遠近彼此の別を取り去りますと「もの悲しさ」が残る。選り抜きの出土品の勾玉から大小遠近彼此の別を取り去りますと「特別な感銘」が残る。だからこれでよい訳です。

 それで、無私の心という、泥洹界とよばれてるもの、これは大小遠近彼此の別を取り去られていますから第8識です。それで前頭葉は別の世界ですから、大小遠近彼此の別は第7識です。それから、第9識には無差別智が働く。つまり頭の働きというからくりは第9識、これも頭頂葉。頭頂葉の第9識に無差別智が働くから。

 ところで、無差別智は頭頂葉に働くんですが、それが頭の各部分に伝わり1つ1つの部分を受け持っている。運動領は無明と云う、智光が働かんのです。あとは、頭頂葉は大円鏡智(だいえんきょうち)。だから哲学は頭頂葉でできるんですね。それから後頭葉は妙観察智(みょうかんざっち)。だから認識は後頭葉でできるんです。それから側頭葉は成所作智(じょうしょさっち)。だから感覚は側頭葉でできるんです。それから前頭葉は平等性智(びょうどうしょうち)。推理とか理性とか、これは前頭葉でやってる。こんなふうになってる。

 それで、こういうからくりになってる。本当の自分というものは第8識。第8識が自分ですから、第8識の中には総ての時があって、時の中に第8識があるんではない。だから本当の自分は不死です。それから、なかんずく過去の全体がある。だからその人とは過去の全体。過去の全体があるからメロディーを奏でることが出来る。それから、大小遠近なかんずく彼此の別がないから、だから本当の自分は(ひと)が喜んでおれば嬉しいし、(ひと)が悲しんでおれば悲しいのです。そうですね、まだ有りますが、ともかく五尺のからだとその機能とが自分であるというのは間違いである。完全な間違い。迷いと云う。

 明治以前1300年の間、仏教は、五尺のからだを自分と思うのは迷いであるから、早くこの迷いを離れて本当の自分を悟れと、そう云い通してきた。この間違いをそのまま取り入れて、そして終戦後それによって憲法、法律を作り、それによって社会通念を作り、それによって教育原理を作ったのも間違い。これくらい間違ったことをやってるのに、僧侶は10万も居る。何ひとつ云わん。わたしが知ってるのに、無茶です。あんな風なのは、何んの役にも立たん。とにかく間違いのもとはそこにある。

(※解説3)

 この辺から岡は東洋の神秘主義の要素も取り入れて、大脳機能の解明を試みるようになる。この少し前に岡は王朝文学の権威である保田与重郎(やすだよじゅうろう)の紹介で、日本へ亡命していた中国を代表する思想家の胡蘭成(こらんせい)と知遇を得、本場東洋思想の神髄をいろいろと教えられる訳で、この「泥洹宮」という言葉も当然のことながら胡蘭成からの知識である。

 今日までの大脳生理学は西洋の一方的な受け売りで、「第1の心」の世界観のみで大脳機能を解明しようとしているのだが、それだけでは真の人間観、世界観は生まれてこず、東洋の「第2の心」の世界観を加えた上での大脳機能を探っていくべきだと岡は考えているのである。

 ここでは大小遠近彼此の別、つまり時間空間の中に物質があるという「第1の心」の世界は「第7識、前頭葉」。もの悲しさである「情緒」や、そして特別の「感銘」は道元のいう「有時」と岡は見ているのであるが、この「有時」をこの時点では過去、現在、未来の「時」と見て、これは「第8識、頭頂葉」。岡が仏教から引いてきた「第9識」は「全一の点」といって人の心と宇宙の中心、ここに無差別智が働いていて、ここも同じく「頭頂葉」ということになる。

 ここまでが1969年時点での岡の大脳機能の位置づけになるのだが、3年後の1972年にはその構想が決定的に変わってきて、過去、現在、未来という「時」と、それから「情緒」とが完全に分かれ「時」は第8識となり、「情緒」は第9識を飛びこえて第10識、そして場所としては「後頭葉」という風に変わってくるのである。つまり、ここに至って初めて「情の世界」の深さの見極めが、岡自身にも完全についてきたのである。

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