「人とは何か」
【3】 泥洹宮
ところで、中国に黄老()の教えというのがある。 黄老の教えは、頭頂葉には泥洹宮()というものがあると云ってる。宮()は宮()という字を書きますが、泥()は泥()という字、洹()は氵に一して日して一と書く。泥洹()と読む。どういう意味かと云えば、有無を離れた境という意味です。
有無を離れた境とはどういうことかと云うと、大小遠近彼此の別の無いところという意味です。秋風から大小遠近彼此の別を取り去りますと「もの悲しさ」が残る。選り抜きの出土品の勾玉から大小遠近彼此の別を取り去りますと「特別な感銘」が残る。だからこれでよい訳です。
それで、無私の心という、泥洹界とよばれてるもの、これは大小遠近彼此の別を取り去られていますから第8識です。それで前頭葉は別の世界ですから、大小遠近彼此の別は第7識です。それから、第9識には無差別智が働く。つまり頭の働きというからくりは第9識、これも頭頂葉。頭頂葉の第9識に無差別智が働くから。
ところで、無差別智は頭頂葉に働くんですが、それが頭の各部分に伝わり1つ1つの部分を受け持っている。運動領は無明と云う、智光が働かんのです。あとは、頭頂葉は大円鏡智()。だから哲学は頭頂葉でできるんですね。それから後頭葉は妙観察智()。だから認識は後頭葉でできるんです。それから側頭葉は成所作智()。だから感覚は側頭葉でできるんです。それから前頭葉は平等性智()。推理とか理性とか、これは前頭葉でやってる。こんなふうになってる。
それで、こういうからくりになってる。本当の自分というものは第8識。第8識が自分ですから、第8識の中には総ての時があって、時の中に第8識があるんではない。だから本当の自分は不死です。それから、なかんずく過去の全体がある。だからその人とは過去の全体。過去の全体があるからメロディーを奏でることが出来る。それから、大小遠近なかんずく彼此の別がないから、だから本当の自分は他()が喜んでおれば嬉しいし、他()が悲しんでおれば悲しいのです。そうですね、まだ有りますが、ともかく五尺のからだとその機能とが自分であるというのは間違いである。完全な間違い。迷いと云う。
明治以前1300年の間、仏教は、五尺のからだを自分と思うのは迷いであるから、早くこの迷いを離れて本当の自分を悟れと、そう云い通してきた。この間違いをそのまま取り入れて、そして終戦後それによって憲法、法律を作り、それによって社会通念を作り、それによって教育原理を作ったのも間違い。これくらい間違ったことをやってるのに、僧侶は10万も居る。何ひとつ云わん。わたしが知ってるのに、無茶です。あんな風なのは、何んの役にも立たん。とにかく間違いのもとはそこにある。
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