「人とは何か」
【4】 百姓のまごころ
それで、日本の百姓をみてみます。ここに日本の百姓が1人いる。山の上に畑を開き、わずかばかりの大根の種を蒔く。それが生えると、遠い家から肥しを運んできてこれに掛ける。この百姓の労作が大根に対する愛情を芽生えさせる。これ、第1の心が芽生えたんですね。愛情は第1の心、前頭葉の心です。
で、この大根に対する愛情のために、百姓はせっせと労作を重ねて、愛情はますます育つ。で、ある夏の朝、百姓は愛する大根のために遠い家から重い肥しを運んで大根の所へ行ってみると、大根は非常に元気にしていて、その葉脈のはしばしまで露の玉をつけている。それがあたかも昇ってきた太陽に輝いて、きらきらといかにも嬉しそうにしている。それを見た時、百姓は自分の大根に対する真心はこれですっかり報われたと思う。真心は第2の心、無私の心です。
無私の心がかように芽生えましたから、無私の心がメロディーを奏でる。つまり、これまでの労作に正確に当てはまる、そういうメロディーを奏でる。それを聞いて、百姓は無上の幸福を感じる。無上の幸福とは、最早やこれ以上何も要らないという幸福。そういう幸福を感じる。真心という無私の心が芽生えたら、その心がこれまでの労作に相当するメロディーを奏でるのです。
この百姓の受ける無上の幸福は、本人だけにわかるがあとの人には一切わからない。だからこれを「自作自受()」と云う。自()から作()して、作法の作です、自から受ける、自作自受と云う。日本の百姓の不思議な勤勉さはこの自作自受によるのです。
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