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2015.02.09up

岡潔講演録(13)


「人とは何か」

【7】 小林秀雄の死の位

 で、自作自受の生活を徹底してやっていますと、どんなふうになるか。自作自受の生活を充分自覚して送って、死んだらどうなるか。それを申します。

 頭頂葉を白紙にする。それから運動領は無明と云いましたが、無明は生きている間は生きようとする盲目的意志です。これを無明のもとに、メリケン粉のようなサラサラしたものに変えてしまう。これを中天(中という字と天という字)、中天と云うことにする。生きている間はそれに生きようとする盲目的意志が働く、死ねばまた中天にかえる。

 それで頭頂葉を白紙にして運動領を中天、頭頂葉が白紙になれば運動領は中天にかえるのです。そうしておいて、裸の第2の心のタンジェンシャル(tangential)メロディーを頭頂葉へ置いてやる。タンジェンシャルメロディーって云うと死の刹那のメロディーですね。

 頭頂葉のメロディーが自分だというのは全メロディーですね。そうすると、充分自作自受が出来てますから、頭頂葉の全メロディーが自分である。生きようとする盲目的意志が自分だとは思いませんから、頭頂葉の全メロディーが自分だということは充分わかっていますから、それで頭頂葉の全メロディーの雰囲気の漂うている、そこが後頭葉、後頭葉へ行きます。

 小林秀雄さんだと、そこで選り抜きの出土品の勾玉に最後の別れを惜む。そして充分その感銘を身につけて、そうしてかように頭頂葉の感銘を充分身につけて側頭葉へ行く。

 ここは頭頂葉の雰囲気が後頭葉に伝わって、その雰囲気を単一メロディーあるいは標語に練りあげるんです。云わば仙丹を練るんです。必要な道具立てはみな備わってる。で、小林さんは、ここで、

  赤玉は緒さえ光れど白玉の

 こんなふうに練りあげる。これはメロディーじゃなく標語です。

 そうして、前頭葉へ行って、前頭葉で世の中へ出て行く。前頭葉は意識です。この標語を握って前頭葉へ行って、つまり日本へ行って、このメロディーを奏でるのに都合がよい家を選んで生まれる。こんなふうになってる。

(※解説7)

 ここは誠に難しいところで、私もいまだよくわからないのだが、人の生死の有様をこのように大脳生理から説明した人など、いまだかっていなかったに違いない。

 ともかくここをもう一度整理してみると、人が死ぬと運動領の肉体は中天(中有(ちゅうう)または中陰(ちゅういん)の世界)に帰り、「第2の心」の宿る頭頂葉が白紙になるわけだが、小林秀雄さんだと「赤玉は緒さえ光れど白玉の」という死の刹那のメロディーを、本来あるはずのその人の全メロディーのかわりにこの頭頂葉へ置くことになる。

 それから念の後ろ回りで、その人の全メロディーの「雰囲気」の漂うところである後頭葉へ行き、その雰囲気を十分身につけたあと、その雰囲気を側頭葉で「標語か単一メロディー」に練り上げて、それを握ったまま前頭葉へ行って、そうして再び人の世へ生まれてくるというのである。

 岡の母親の八重の話によると、岡がはじめて口を利いたのは田舎の家の釣りランプの風に揺れるのをジーッと見て、ついには「アーンプ」、つまり「ランプ」といったということだが、多分その「ランプ」という言葉は岡にいわせれば、岡が人の世に生まれてくる前の側頭葉の「標語か単一メロディー」ということになるのだろう。

 岡は仏教の理論と独自の大脳生理と自らの過去の体験をもとにして、この生と死のメカニズムを構想したのではないだろうか。

 因に、この「ランプ」という意味は「闇夜の灯び」ということであって、「人類の光になれ」という造化からのメッセージであると岡はいう。

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